2020年NHK大河ドラマ「麒麟がくる」明智光秀ゆかりの地 京都Ⅱ

2020年NHK大河ドラマ「麒麟がくる」明智光秀ゆかりの地 京都Ⅰに引き続き、光秀のゆかりのある京都の地を紹介します。

[su_highlight background=”#65a8d0″ color=”#fefdfd”]2020年NHK大河ドラマ「麒麟が来る」明智光秀ゆかりの地 京都Ⅰの記事はこちらへ ☟☟[/su_highlight]

2020年NHK大河ドラマ「麒麟がくる」明智光秀ゆかりの地 京都Ⅰ

勝竜寺城

地味だけど重要なポイントをになってきた勝竜寺城を紹介します。

まず有名なのは、細川ガラシャが嫁いだ城です。

そして明智光秀が山崎の合戦では勝竜寺城を背にして戦ったと伝わっています。

現在も光秀が退却したとされる北門跡が残っています。

実はそれよりずっと前、光秀の功で足利義昭が信長と出会い、信長が義昭を奉じて上洛する2日前、三好三人衆の岩成友通が守る勝竜寺城を攻撃させています。

勝竜寺城は歴史の分岐点にあったのかもしれません。

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愛宕神社

「ときは今あめが下知る五月哉」

余りにも有名な本能寺の変直前に光秀が詠んだ連歌の一説です。

そしてこれを詠んだ場所が愛宕神社でした。

愛宕神社では本能寺に奇襲をかけることについて、3度もおみくじを引いたと伝わっています。

光秀が本能寺の変を起こすよりかなり前の平安時代、この愛宕神社は保元の乱の起因にもなっています。

近衛天皇崩御後に院政を行っていた鳥羽法皇が天皇の甥である重仁親王を擁立しようとしていました。

しかし息子を天皇にしたかった父の崇徳上皇が愛宕神社で呪詛を行わせ、近衛天皇を殺したという噂が広がります。

これを聞いた鳥羽法皇は激怒し、重仁親王の即位を取り止め後白河天皇を擁立しました。

これが保元の乱のきっかけといわれています。

全国にある愛宕神社の総本山であり、火伏の神としても名高い神社ですが、戦火を起こすのは得意なのかと穿った見方をしてみたくなりました。

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谷性寺(こくしょうじ)

別名「光秀寺」とも「ききょう寺」とも呼ばれており、光秀の首塚があることで知られています。

ご本尊は不動明王。

光秀はこの不動明王を厚く信仰していました。

織田信長を本能寺で討つ決意をした際、不動明王に「一殺多生の降魔の剣を授けたまえ」と誓願したといわれています。

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本能寺

いわずと知れた歴史上最大の事件とも、最大の謎ともいわれる本能寺の変。

その現場となった本能寺ですが、現在の場所とは異なります。

本能寺は創建以来、さまざまな 事情により京都の町中を転々と移 動します。

現在の本能寺は、豊臣秀吉の命令により1591年に寺町御池に移転したものです。

本能寺の変の時は北を六角小路、東を西洞院大路、南を四条坊門小路、西を油小路に囲まれた場所にありました。

現在の本能寺から西へ2㎞ほど進んだ旧本能寺小学校があったあたり、現在は老人ホームになっています。

老人ホームの片隅には、本能寺跡の石碑がありますが、目印はそれくらいしかありません。

2007年夏から冬にかけて3回にわたって本能寺跡の発掘調査が行われています。

本能寺の変のものと思われる焼けた瓦や調度品などが見つかっています。

造りが複雑で堀や高い石塀などがあったことから、寺というよりは小さな要塞だったことも考えらえれます。

信長はここ本能寺で鉄砲の買い付けなども行っていたという人もいます。

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明智越

保津より嵯峨へ越える峰の道を明智越といいます。

光秀が作った道ではありません。

信長に安土城に呼ばれ、中国遠征中の秀吉を補佐しろという命令を受けていったん坂本城に戻ります。

そして軍を整えるため亀山城に入り、ここから本能寺に向かいました。

その時の兵数は15000騎。

これを3つに分け、その一つの隊が越えたのが明智越といわれるようになった峠でした。

全長8kmほどの明智越は、現在はハイキングロードとして人気があり、行楽シーズンには沢山の人が訪れています。

登り口は保津城の搦手、または嵯峨鳥居本。

ハイキングなどで行ってみたい人は、こちらを参考にしてください

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