2020年NHK大河「麒麟が来る」明智光秀丹波平定 しかし・・

明智光秀の第二次丹波平定は、粛々としかし確実に準備が進められました。

こうした準備の最中、光秀は徳川や柴田などの織田軍の有力武将たちとの連携も深めていたようです。



光秀の第二次丹波平定作戦

光秀が丹波攻略の起点としたのは、そのために築城した亀山城でした。

最初に八上城を落とし、八木城、宇津城、園部城、黒井城と落とし、翌年からは福知山城として改築する前の横山城、信長に謀叛した荒木氏の有岡城、別所氏の三木城を落としています。

八上城陥落については、こんな逸話があります。

八上城を攻めあぐねた光秀は、自分の母を人質に出し波多野氏と和議を結びました。

そして信長の臣下とするべく、波多野兄弟を信長の元に送ったところ無残にも磔にされ、人質として八上城にいた光秀の母は殺されたというものです。

しかし信頼性の高い資料では、光秀が調略によって波多野兄弟を捉え信長に送ったところ殺されたとされています。

母親が殺されたことで信長への恨みが増し、本能寺の変につながったというストーリーは、ここでも怪しくなってきました。

八上城は山の頂上付近あり、力攻めが難しい城だったそうです。

光秀は1578年3月から包囲戦を持ち込み兵糧攻めを開始しました。

それは翌年6月まで続き、八上城は餓死者が続出する悲惨な状況と化していたようです。

この八上城包囲網が出来上がってきたころ、荒木村重の謀叛が起こります。

荒木村重自身も、主君信長を信用できず、信長からは内通を疑われたことを機に反旗を翻しています。

そして波多野兄弟のようになりたくないという思いから、徹底抗戦を続け翌年9月に逃亡しました。

丹波平定の最中、こうした造反者の討伐にまで光秀は駆り出されています。

丹波平定後、光秀は先進的な技術とセンスを生かし、河川を改修し農地を広げたり城下町を整備したりして領民からの信頼も篤く、名君として慕われていたそうです。

この時期、徳川家の側近である木俣守勝が光秀に出向のような形で仕えています。

木俣守勝は本能寺の変の前に徳川家に復職しており、徳川の命により徳川四天王の一人井伊直政に仕え「井伊の赤揃え」の生みの親になった人物です。

また柴田勝家の重臣だった柴田勝貞を、明智家重臣として召し抱えています。

こうした事を考えると、織田家臣団の横の結束を強くし、それぞれの保身を模索したのではないかと考えられます。

丹波平定後・・・

 

しかし!という事が明智光秀の身に起こります。

丹波を平定し城下を一新し、やっと軌道に乗ったころ信長からの指令が届きます。

丹波一帯を含む明智の領土を召し上げるという内容でした。

今後は毛利のいる中国地方を平定し、そこを領地とするようにという指令です。

当時、京から離れるという事は左遷を意味します。

また生まれ故郷を含む丹波一帯には、強い思い入れもあったでしょう。

信長にしてみたら、九州を統一する足掛かりとして、光秀ならという思いがあったのかもしれません。

実際の光秀は、中国地方に移転することなく、この後本能寺の変へと進むことになります。

本能寺の変はなぜ起きたのか?

 

比叡山焼き討ちに反対だったというのは、既に劇中の物語でしかないと分かっています。

母親が殺された説も信ぴょう性がありません。

徳川氏を接待するにあたり、腐った魚を提供してしまい、信長から人前で強い責を受けたという説も然りです。

とするといったい何故という疑問が残ります。

勿論本当の事は亡き光秀公にしか分かりませんが、色々調べてきた中で4つの説がある事が分かりました。

次回は「本能寺の変はなぜ起きた? 4つの仮説」で紹介したいと思います。



コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください