2020年NHK大河「麒麟が来る」で織田信長を演じるのは、染谷翔太さんに決まりました。
今までにない信長像をと、監督に伝えられたという記事を目にしました。
今までの信長とは、軍事の天才であり日本全土を自分の指揮下におこうとした最初の人物的な扱いでした。
またアイデアの豊富な人で、楽市楽座というのも信長が奨励し城下町の発展に貢献したと、私が学校で習ったころはそう
教えられました。
ところが、最近色々な関連書を読む機会があり、こうした内容は後世の人の想像の産物が含まれるという事実を知りました。
では、織田信長とはどういう人だったのでしょうか?

織田信長を有名にした戦
15代将軍足利義昭の後ろ盾となら京に上洛した信長ですが、他の有力な大名からみたら「だから何?」程度の小さな存在でしかありませんでした。
そんな信長を有名にした戦が二つあります。
桶狭間の戦いと長篠の戦いです。
桶狭間の戦いでは今川軍を相手に奇襲戦法で勝利し、長篠の戦いでは鉄砲三段撃ちで武田軍に勝ちました。
しかし状況から推察する限り、専門家はそんなはずはないと否定的です。
今回は桶狭間の戦いを紹介します。
桶狭間の戦い
信長より7歳年上の家来に、太田牛一という人がいました。
この牛一が書き残したものが「信長公記(しんちょうこうき)」です。
これを元に、信長は天才だという人とそうでは無いとう人に二分するのも面白いところです。
今川軍2万5千の大群に侵攻された尾張の城中はハチの巣とつついたような大騒ぎだったそうです。
大軍を前に下織田家重臣たちは、清州城での籠城作戦を声高に叫びましたが信長は全く動こうとしなかったとあります。
状況が極めて悪い中、信長は突然出陣のほら貝を吹かせ、自分は200人程度の兵を連れて飛び出していきました。
信長が目指した先は、今川軍の本陣でした。
後から追いついてきた2000人の兵を、今川義元の陣中近くに忍ばせる事に成功します。
なぜ敵兵の偵察に見つからず兵馬の移動ができたのか、それはこの時集中豪雨があり何も見えない状況にあったからだそうです。
しかも今川軍は雨を避け木の下などに避難をし、ぼーっと雨が止むのを待っているといった状態でした。
雨のため陣形をうまく取れず、指揮系統が乱れた今川軍を押し返す事に成功したのです。
これを奇襲として絶賛する歴史家も少なくないのは事実です。
信長は天気さえ予測して戦術を立てているといった褒めたたえようです。
一方天才では無いという専門家は、これを奇襲とは言わないとしています。
なぜなら奇襲とは、思いもかけない時刻に思いもかけない方向から思いもかけない方法で突撃することで、本陣狙いといっても真昼間に突撃するのは奇襲ではないと結論しています。
確かに信長に幸いしたのは豪雨でした。
これが無ければ今川軍に全滅させられていたでしょう。

籠城戦はできなかった信長
清洲城籠城は信長の負けを意味していました。
今川の大群と戦う事を嫌う重臣たちは、包囲されれば寝返る可能性が大きかったようです。
兵にしても今川と戦えば死ぬかもしれないんですから、逃げるものの沢山出たでしょう。
なぜかというと、織田家は父信秀の時代に急成長した、いわゆる成り上がり的な家でした。
重臣にしても、忠誠心や主との信頼関係は薄かったようです。
兵にいたっては、土着の兵というより傭兵が多いというのが実情でした。
お金目当てに集まる兵には、忠誠心が無いのは勿論、命を投げ出してまで戦う義理もありません。
籠城戦が一転して敗戦、または和睦となった場合、信長の首を要求されるのは当たり前だったのです。
加えて信長という人にも求心力がありませんでした。
ただ桶狭間の戦いにおいては、少数の兵を指揮する能力はあったという事が証明されたに過ぎないといわれています。
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