織田家最大の軍を預けられながらも最後は織田家を追い出された武将・佐久間信盛(右衛門)

2020年NHK大河ドラマ「麒麟がくる」では、金子ノブアキさんが演じる佐久間信盛という人物を紹介しましょう。

織田家の筆頭家老の地位にあり、軍事にも交渉にも優れた人物でした。

それが最後には高野山に追われ、寂しく亡くなっています。

麒麟がくるの登場人物のページでは、次のように紹介されています。

「織田家宿老。信秀、信長に仕え、近江六角氏の征討などに従軍し、軍功をあげた。天正8年に、信長によって高野山に追放される。」

https://www.nhk.or.jp/kirin/cast/40.html

そんな佐久間信盛の生涯を追ってみました。



信長の信頼も厚く順風満帆だった佐久間信盛

佐久間信盛は、織田信長の父・信秀の代から織田に仕えていました。

幼かった信長の重臣として付けらるほど、当時から信頼を得ていたようです。

信秀死後の家督相続争いにも、一貫して信長側につき、次々と相手の家臣を寝返らせるなど、交渉術に長けた様子も垣間見せました。

徳川家康の長男・松平信康に信長の娘・徳姫が嫁ぐ際には、岡崎城まで供をするなど、信頼の厚かった証拠が散見されます。

松永久秀を交渉の末、織田の味方につけたり、比叡山の焼き討ちでは武功をあげ、知行地として近江国栗太郡を地領として信長から拝領しています。

そつなくなんでもこなす佐久間を、信長は常々信頼し、重きをおいてたいたのでしょう。



佐久間信盛の転落が始まる

自分の立場をわきまえていなかったのか、それとも単に空気を読むという洞察力が足りなかったのか・・・

筆者が思うのは、人との交渉を上手に行うことができる人間は、決して空気を読めない人ではあり得ないということです。

洞察する力があってこその、根回しだったり、説得だったりするのではないでしょうか。

佐久間信盛は、信秀公から厚くい用いられた家臣であるということに、驕りがあったのかもしれません。

武田信玄が織田を狙ったときのことです。

領地の関係で、先鋒で戦うはめに陥った徳川軍を助けるために、3000の兵を率いて進軍するも、自軍は傷を負うこともなく退散しています。

この時の武田軍は、27000余りとされていますから、徳川8000と合流しても分が悪い思ったのかもしれません。

ただ、このとき、平手汎秀が敗死しています。

平手汎秀は、信長が幼少のころの教育係だった、平手正秀の孫にあたる人物で、堅物であり、猪突猛進タイプでもあったということです。

戦わずして逃げてきた信盛にたいし、信長は一気に不信感を持つことになります。

そして、朝倉との一乗谷の合戦直前、朝倉義景の動きを見逃すなと言われたにも関わらず、逃げる朝倉義景を見逃すという失態を犯しました。

激高する信長に、「さ様に仰せられ候共、我々程の内の者はもたれ間敷」と口応えをし、周りの武将にとりなしてもらうということもありました。

左様に・・・の部分は、「そんなことを言っても、自分たちほど優れた家臣はそうそういないんとちゃいまっか」というような内容です。

石山本願寺を責めるとき信盛は、織田家中最大規模の兵士を預かりましたが、戦線は膠着状態が4年も続きます。

その間、あちこちの戦闘に駆り出されてはいますが、それは羽柴も明智も柴田も同じことです。

本願寺には、鉄砲隊を持つ忍び衆が味方しており、非常に手ごわい相手だったという理由もあるにはあります。

しかしこの長期間にわたるテイタラクを、信長は許しませんでした。

19ヶ条にわたる折檻状を突きつけ、信盛を追放したのです。

嫡男の信栄と共に高野山へと上ったのもつかの間、高野山にすら在住することを許されず、一族郎党にも見捨てられてしまいました。

熊野に落ち延びるときは、従者はたった1人と、信盛・信栄親子の3人だけだったと伝わっています。

佐久間信盛は、奇しくも本能寺の変で織田信長が亡くなった年に、没しています。



にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください