木下藤吉郎は謎だらけ!? 2020年NHK大河ドラマ「麒麟が来る」の登場人物

木下藤吉郎、言わずと知れた豊臣秀吉ですが、実はこちらも謎が多い人物です。

百姓だったとか商人だったとか、幼少期の日吉丸という名は絵本太閤記の創作であり、木下という姓も後から妻方の姓を貰ったという説もあります。

豊臣秀吉を描いた映画やドラマが沢山あり、子供のころから何となく見ていたので、知っている気になっているのが実情かもしれません。

2020年NHK大河ドラマ「麒麟が来る」では、木下藤吉郎を演じるのは佐々木蔵之介さんです。

戦国武将のイメージはありますが、猿にはどう見ても遠いかと・・・・



木下藤吉郎の生涯

一般的に知られているのが、尾張国愛知郡中村郷の下層民の家に生まれたとされるものです。

母である大政所の名は仲(なか)というのが通説ですが、これも定かではありません。

また大政所は秀吉晩年まで存命でしたが、父親については一切分かっていません。

生年についての最近の説では、1537年2月6日というのが有力です。

秀吉の生涯を綴った『太閤記』の中にある『太閤素性記」によると、7歳で実父・木下弥右衛門と死別。

その後母・仲は竹阿弥と再婚するも、藤吉郎との折り合いが悪くいつも虐待されていたと書かれています。

15歳の時に父の遺産を分けてもらい、針売りなどをしながら放浪していたと記載されています。

ここで注釈を加えると、太閤記とは秀吉の生涯を綴った本全般を指します。

その元となったのが、生前秀吉が大村由己に命じて書かせた『天正記』です。

秀吉存命中に秀吉の顔色を窺いながら書かれた本ですから、幼少期の記述についての信ぴょう性は薄いのではないかと言われています。

木下姓も父から継いだ姓かどうか疑問視されていて、妻・ねねの母方の姓とする説もあります。

最下層の出身であれば、この時代姓が無いのが普通です。

秀吉の出自については、『改正三河後風土記』は与助という名のドジョウすくいであったとしており、ほかに村長の息子(『前野家文書』「武功夜話」)、大工・鍛冶などの技術者集団や行商人あったとする非農業民説など多数ありますが、本当のところはまだ解明されていません。



サムライになった木下藤吉郎

木下藤吉郎が最初に仕えたのは、今川家家臣飯尾氏のそのまた家臣、引馬城支城の頭陀寺城主・松下之綱(加兵衛)でした。

暫くはそこで働いていたようですが、目を掛けられたことを妬まれ虐めを受ける藤吉郎を不憫に思った加兵衛が金を与えて送り出したと『太閤素性記』には記載されています。

一方、藤吉郎が使いの金を盗んで出奔したとする『甫庵太閤記』や『真書太閤記』などの説もありますが真実は不明です。

そしていよいよ織田家に小者として仕えるようになりました。

有名な逸話は、例の信長の草履を懐に入れて温めたというものです。

藤吉郎には天性の自己アピール能力、パフォーマーのような才能があったのではないかと筆者は考えます。

ちなみに小者とは、住み込みで雑用を行うために雇われたもので、一般的には平民出身者をいいます。

足軽組頭に出世した藤吉郎は、1561年いよいよねねと結婚します。

ねねは母・朝日の反対を押し切っての結婚でした。

結婚式は藁と薄縁を敷いて行われた質素なものであったと伝わっていいます。

ねねの父・浅野長勝も秀吉も足軽組頭であり、同じ長屋で暮らしていたので、秀吉は浅野家の入り婿の形でねねと婚姻したのではないかという説もあります。

木下藤吉郎の名が最初に史実に現れたのが、1565年11月2日付けの坪内利定宛て知行安堵状であり、「木下藤吉郎秀吉」として副署しているものです。

このことは、藤吉郎が信長の有力部将の一人として認められていたことを示しているのではと考えられます。

1572年8月頃、丹羽長秀、柴田勝家のような人物になりたいという希望から木下氏を羽柴氏に改め、羽柴秀吉としています。

豊臣の姓は、関白になってから朝廷から賜ったものです。

2020年NHK大河ドラマ「麒麟が来る」の登場人物として、木下藤吉郎の名で発表があったことを踏まえ、木下藤吉郎時代のものを調べてみました。

ドラマではどんな木下藤吉郎が描かれるのでしょうか。

少なくても、名古屋弁をキーキーと猿ではなさそうですね。



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