徳川慶喜の心遣いに気が付かなかった自分を、渋沢栄一は、ただただ恥じ入るばかりでした。
慶喜のために働こう!という意を強くした渋沢栄一は、勘定組頭への抜擢を受けるかと思いきや、その就任を断っています。
渋沢栄一が考えたのは、徳川慶喜が住む静岡を、発展させ裕福にしようということでした。
そして日本で初めて、「商法会所」を開設したのです。
商法会所とは
渋沢栄一がフランスで学んできた、合本組織による会社の設立です。
それにあたって渋沢栄一は、「商法会所規則」を作ったのですが、それが完成するまでに要した時間は、なんとたったの二日だったそうです。
では、商法会所の仕組みを、かいつまんで紹介しましょう。
明治新政府は、日本全国の統一紙幣を作るため、太政官札を作りました。
明治維新で財政的にひっ迫している各藩に、石高に応じた貸付を行いました。
これによって各藩の財政を助け、それによる利子で明治政府の殖産産業の資金としたのです。
静岡藩が借りたのは、53万両でした。
使うだけで終わってしまえば、あとは返済に四苦八苦するのは目に見えています。
これを元本に、商社と銀行を合わせたようなシステムを作ろうと考えたのです。
藩が政府から借りた石高拝借金と、商人などが出資し、資本金とします。
お茶・養蚕・米などを生産するために必要なものを買うための資金として貸し付けたり、肥料や製品を買い取るためにも使います。
出資希望者は誰でも参加でき、出資金額も問わないというのが画期的な方法でした。
そして商法会所に利益がでれば、出資金額に応じて配当金が出されます。
そうです! 商法会所とは、まさに現代の株式会社そのものです。
静岡藩の平岡に検討を頼んだところ、快諾をうけました。
政府から借りたお金が減ることはなく、逆にそれを元手に利益があがり、静岡藩の殖産興業に貢献できるという、願ってもない方法ですから、快諾は当然でしょう。
渋沢栄一は頭取となり、配下には藩士だけではなく、藩内の商人たちも各部の担当実務を行っています。
お茶所静岡が日本一の生産地になったわけ
それは渋沢栄一が起こした、「商法会所」のおかげです。
しかしそればかりではありません。
実は静岡に移ってきた幕臣たちの、汗と涙があってこその茶畑なのです。
明治維新直後、幕臣と呼ばれる武士たちは、総勢32000人前後と記録されています。
徳川慶喜が静岡に移ったことで、そのうちの13000人が一緒に移ってきたのです。
徳川の石高は、この時70万石ほど。
養える家臣は、せいぜい5000人程度でした。
となると、8000人は自活する必要があります。
農作業などやったことのない幕臣8000人が、静岡藩から借りた山を開墾し、茶畑を作っていったのです。
お茶は、政府が輸出品として推奨していた特産品の一つでした。
これらに関わる資金を、渋沢栄一の「商法会所」が出資していたのです。
渋沢栄一の先見の明 さすがの経済人
政府が大量に、一気に発行した太政官札の価値が暴落し、物価が上がる…渋沢栄一は、それを予見していました。
太政官札を小判などに交換したり、肥料や米などを大量に購入しておいたのです。
渋沢栄一が予想した通り、肥料と米は値上がりし、相場と駆け引きしながら売買したことで、藩は大きな利益を得ることができました。
静岡の地で、渋沢栄一は日本がこれから進まなければならない社会の仕組みを体現化したのです。
日本が豊かな国になるためには、外貨を稼がなければなりません。
そのためには、欧州と同じようなシステムを取り入れて産業を興す必要があります。
それには合本組織(株式会社)が必要不可欠だと、考えていたのです。
この後、渋沢栄一は、不本意ながら政府に呼ばれることとなります。
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