明智光秀 岐阜でゆかりの地はどこ? 2020年NHK大河ドラマ「麒麟がくる」Ⅰに続いて岐阜県にある明智光秀ゆかりの地を紹介します♪」
[su_highlight background=”#0ad0d1″ color=”#fefdfd”]2020年NHK大河ドラマ「麒麟がくる」Ⅲの記事はこちらへ ⇩[/su_highlight]
光秀の墓・桔梗塚
桔梗塚には次のような言い伝えがあります。
「明智光秀は、土岐四郎基頼と地元の豪族の娘との間に中洞で生まれ、その後、明智城主明智光綱の養子となりました。また、山崎の合戦で討ち死にしたのは影武者であり、中洞に落ち延びて荒深小五郎として暮らしていました。」
というものです。
伝承では、1582年山崎の合戦での敗走時、討たれて死んだのは光秀ではなく、光秀の影武者「荒木山城守行信」だと伝っています。
光秀は荒木山城守るの忠誠心に感銘し、荒木の「荒」と深い感銘と感謝を表して「深」を用い、荒深と名乗ったそうです。
その後光秀は雲水の姿となって諸国遍歴の旅にでました
1600年に起きた関ヶ原の合戦では、東軍(徳川軍)に味方しようとしましたが、途中藪川の洪水で馬と共に押し流されおぼれ死んだ為、死骸を山城守の子吉兵衛が持ち帰りこの地に埋葬したと伝えられています。
一般的な史実としては、父・明智光綱 母:お牧の方 養父:明智光安又は明智頼明とされており、山崎の合戦で死亡というのが有力です。
桔梗塚には、「光秀の墓」と「五輪塔」があります。
こうした伝説も、火のないところには煙は立たないわけですから、何かしらの根拠または事象があってのことかもしれません。
[googlemaps https://www.google.com/maps/embed?pb=!1m18!1m12!1m3!1d207038.29176894954!2d139.99594823423098!3d35.825130575415905!2m3!1f0!2f0!3f0!3m2!1i1024!2i768!4f13.1!3m3!1m2!1s0x60228f59e26d335d%3A0xdac410422fc3b338!2z5qGU5qKX5aGa!5e0!3m2!1sja!2sjp!4v1565833138905!5m2!1sja!2sjp&w=600&h=450]また近くの河原には、行徳岩(ぎょうとくいわ)もあります。
明智光秀の母が懐妊していた時、この岩に立って行水し、「私の生む子が男であったら、仮令三日でもよいから天下を取るような立派な男子を、もし女であったら天下一の美女をお授け下さい」と祈ったと伝えられています。
まさに三日天下・・・って、まさかねぇww
中同地区を流れる武儀川にかかる美山大橋の下流域にあたる場所にあります。
深まる光秀の謎、探しにでかけてみませんか?
高山城址
高山といえば合掌造りや古い町並みが人気の飛騨高山です。
高山城は承久の乱の頃に土岐氏一族の高山伊賀守秀頼によって創建され、土岐氏の館を守るための要塞として機能していました。
1615年一国一城令により廃城となりましたが、現在は物見櫓が建てられ、土岐市街地を一望することができます。
お膝元には「高山市三町伝統的建造物群保存地区」があり、徹底した街並み景観の保護がされており、人気の観光地となっているのは周知のとおりです。
光秀学問所
昔の日本では教育をする者とは僧侶であり、受ける者はそれなりの位の子弟というのが普通でした。
光秀学問所とされる場所も、万ヶ洞にある天神神社であり、明智光秀が幼少の頃、京都嵯峨天竜寺の雲水・勝恵という学僧を招き、ここで学問に精進したと言われています。
雲水とは禅の修行僧たちが方々に師を求めて流れ歩いたことを、行雲流水という句から修行僧を雲水(うんすい)と呼ぶようになりました。
その後一定の場所に集まって修行する修行僧も雲水と呼ばれるようになり現在にいたっています。
その中でも学僧とは、仏教に関連した学問や研究、祈祷に専念する僧侶をさします。
京都嵯峨天竜寺の修行僧で、特に学問に秀でた勝恵を呼び寄せ学問に励んでいたと伝わる場所です。
天神神社ですから、祭神は菅原道真公。
京都北野の天満宮からの分祀と伝えられています。
詳細な住所が見つからなかったため、マップは省略します。
明智駅から徒歩約15分の場所にありますが、途中、大正村を通り抜けていくのがお勧めです。
「大正レトロモダンな路地を気ままに散歩しよう」のページを参考にしてください。
大正時代の建物が残りかなり見応え歩きごたえのある景観です。
明智光秀公ゆかりの地も散在しているので、ここでゆっくり1日過ごしてみるのも楽しいかもしれません。
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