明智光秀が領土と城を与えられ坂本城を築城した年の光秀の身分は、まだ義昭の家臣という状態でした。
以前の記事で書いた通り、義昭の家臣であることを辞したい旨を義昭に伝えていましたが、まだ了承されてはいませんでした。
2020年大河ドラマ「麒麟が来る」 織田信長の危機と明智光秀 https://t.co/xA3t1eP3zN
— ぱん@大河ドラマ「麒麟がくる」執筆中♡ (@pansars555) February 25, 2019
義昭の家臣という立場に身を置いたまま、実際は織田軍第一の武将に登りつめていたのです。
そしていよいよ義昭との決別の時がやってきました。
武田信玄死す
武田軍と徳川・織田連合軍の戦いを、地名をとって三方ヶ原合戦といいます。
徳川・織田連合軍は完膚なきまでに破った武田軍ですが、その後野田城を落としはしたものの動きが止まります。
不気味なまでの武田軍の静けさに、織田信長は恐怖すら感じていたかもしれません。
しかしこの時武田信玄は戦場で病死していたのです。
信州に戻っていく武田軍に対し、何かあったのではと考えていた信長に、信玄の死が伝えられました。
武田信玄は、自分の死を3年間隠すようにと遺言をしていたようですが、こうした不可解な動きと諜報活動によって直ぐに露見していたようです。
武田軍が挙兵して西上した背景には、足利義昭からの御内書といわれる大量の手紙でした。
織田を討てという内容の手紙を、武田、浅井、朝倉、本願寺、一向一揆、毛利などに送り続けていたのです。
それを受けて挙兵した武田軍が、勝っていた戦を放棄して信州に戻ってしまった理由を、諜報活動をしていない義昭には知る術がありませんでした。
武田信玄さえも当てにできないと思った義昭は、自ら挙兵します。
義昭には将軍家という肩書があるだけで、実際の将兵はいませんでした。
しかし自分が挙兵すれば必ず自分に追随するものが現れると信じていたようです。
実際3千ほどの兵が集まってきたようです。
決して凡庸な人物ではありませんが、やはり井の中の蛙的な世間知らずの将軍家という印象は否めません。
義昭の挙兵に対し、光秀は織田軍の一武将として参戦しています。
義昭が背後にいて号令をかけていた一向一揆を今堅田城で光秀が破った時点で、事実上は決別していたと考えられる義昭と光秀ですが、ここで敵対することでそれを裏付けた形になります。
宇治の槇島城に立てこもっていた義昭ですが、敗北はあっという間でした。
信長は義昭を若江城に幽閉します。
ここで歴史上、足利幕府が終わり室町時代が終わりを告げたことになります。
この時が織田信長が足利義昭に代わって征夷大将軍になる絶好の機会でした。
しかし信長はなぜかそれをしません。
信長の狙いはなんだったのか、未だに解明されていない謎の一つでもあります。
この後も光秀は義昭軍の残党を討ち、鎮圧しています。
その恩賞として信長から近江の木戸城と田中城と与えらえています。
明智光秀の人柄
武田が信州に戻り、ハエのようにうるさかった義昭を幽閉した信長は、いよいよ浅井・朝倉攻めに本腰をいれ勝利します。
この浅井、朝倉攻めについても、最初に勝利した時の勢いをもって抑え込めば、こんな長期戦にはならずとっくに決着していたはずです。
織田は鉄砲隊などを使った新しい戦術を取り入れたことで、ようやく勝っていたという状態で、もしかしたら信長自身は言われているほど戦上手ではなかったのかもしれません。
義昭の件でも浅井・朝倉の件でも、常套ではない手段を一存で行う信長に対し、家臣たちからの信頼は薄かったといわれています。
浅井・朝倉をようやく倒した後、光秀、羽柴秀吉、滝川一益は越前に残り治安回復にあたっています。
光秀にとって越前は、以前朝倉氏を頼ってきたときに住んだこともある土地です。
敗北した国の領民は、悲惨な目にあわされる事も少なくなかったこの時代、光秀は焼き討ちや略奪などを行わないように取り計らいました。
その際の安堵状も残されています。
越前時代に光秀が住んでいたとされる東大味には、「あけつつあま」と呼ばれる明智神社があります。
明智光秀の温情に対し建てられたもので、今も住民は明智の霊を供養しているそうです。
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