2020年NHK大河ドラマ「麒麟が来る」の主人公、明智光秀はいよいよ武将としての活躍が本格的になってきます。
浅井長政との長期戦が決着を見ないまま、一向一揆、三好三人衆、本願寺などを敵に回した織田信長は、まさに四面楚歌状態にあったのです。
有能な武将であることを常々見せてきた明智光秀と、指揮官が非常に少ない状態の織田信長。
そんな光秀に、信長が京都を守護するように命じました。
今までのような官僚的な守護役ではなく、武将として京都の守れという内容でした。
この時、まだ光秀は正式には信長の家臣ではありません。
しかし武功を立てて出世をするという当時の時世を考えると、信長の元で戦う武将として存在することは、大変魅力があっただろうと思われます。
織田信長の四面楚歌状態とは
浅井・朝倉連合軍が坂本城に向けて出陣してきました。
京都にいた信長が坂本城に向かいますが間に合わず、まずは織田方の宇佐山城が落とされ、その宇佐山城の救援に向かった信長の弟も戦死しました。
明智光秀は、京都での守護を命じられ、この戦いには参戦していません。
この後、浅井・朝倉軍は比叡山に登り、ふもとに陣取る織田軍とのにらみ合いが続きます。
こうした中、一向一揆が攻勢に出て、尾張の小木江城が落ち、ここでも信長の弟が自刃して亡くなっています。
織田信長のこうした膠着状態を打開したのが明智光秀の提案だったといいます。
「権威の力を使って、いったんは和睦の道を開きましょう」
権威とは足利15代将軍義昭のことです。
明智光秀は、義昭の側近という立場を利用し朝廷を動かします。
結果、正親町天皇の命により、関白の二条晴良が和睦に仲介に立ちました。
その条件は、信長は将軍家と延暦寺に対し誠を尽くす事。
延暦寺から奪った領地を返還することという、信長としては屈辱的なものでした。
これが12月13日という、もう直ぐ新しい年を迎えようとしている時期でした。
織田家家臣明智光秀
年が明けると、信長はすぐさま比叡山攻撃を決意します。
同じころ、明智光秀は正式に織田家家臣の一武将となることを決断しました。
しかし実際に義昭から離れるのは、もう少し後になります。
これまでの活躍が功を奏し、奪い返した宇佐山城主として城に入るよう信長に命じられました。
ここでやっと光秀は、明智城を失って以来の一城の主になったわけです。
信長の譜代の重臣である柴田勝家、佐久間信盛、丹波長秀、木下秀吉らも任を負ってそれぞれの城に配置されていますが、光秀のような城主ではなく全て城代としての赴任でした。
これを思うと、信長の光秀に対する信頼が抜きんでていたのではないでしょうか。
この後いよいよ比叡山の焼き討ちが決行されます。
比叡山の攻撃について今までの小説やドラマでは、光秀は比叡山攻撃に否定的であり、これが信長暗殺を考える最初の布石になったかのように伝えられてきましたが、昨今の史実ではこうした内容はあくまでも物語としての域を出ないといっています。
まず真っ先に比叡山攻撃を命じられたのが明智光秀です。
そもそも明智光秀の城、宇佐山城は比叡山に一番近い城です。
比叡山攻撃については、総攻撃の実行案を信長に提出し採用されているのも光秀です。
比叡山焼き討ち後、光秀は多くの比叡山領地を手に入れているのが、この戦いで活躍した証ともいえます。
光秀と義昭の決別
光秀は比叡山攻撃に参戦した年の12月、義昭の家臣から抜けたい旨を義昭に伝えます。
しかし義昭にとっても光秀は有能な家臣であることに変わりなく、また信長に対する当てつけもあって許可されませんでした。
ところが義昭は次の年早々に信長に対し挙兵します。
義昭と信長の完全な離反を機に、光秀は正式に義昭を離れ織田家家臣となりました。
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