帰国し、最後の清算までを終わらせた渋沢栄一は、慶喜公の元で、賜った恩恵を返せしたいという思いと、2年間身近にあった慶喜公の弟・水戸藩主・徳川昭武の傍に仕え、手助けをするべきが、迷っていたのではないでしょうか?
そして昭武が、兄・慶喜に持たせた手紙というのは、渋沢栄一を自分の手元に置きたいという、兄の許しを請うためのものだったのではないでしょうか。
さぁ、慶喜の元に挨拶にいった渋沢栄一は、この後、どうなるのでしょうか?
慶喜の非凡さを痛感する渋沢栄一
渋沢栄一が静岡に着いたのは、もうすぐ年末を迎えようとする12月20日でした。
藩を統括している大久保一翁に、慶喜に拝謁し、パリでの様子を報告したいと願いでます。
謹慎中の慶喜は、旧幕臣と会うことを控えていたようですが、弟・昭武に関する報告ということで、拝謁が許されました。
慶喜が謹慎していたのは、2代将軍・秀忠の母・西郷局の菩提寺でもある宝台院です。
古く薄汚れた寺の、6畳ほどの部屋に、慶喜は住んでいました。
変わり果てた主君の姿に、渋沢栄一は悔し涙があふれ、挨拶の言葉さえ出てこなかったといいます。
自分を落ち着かせ、改めて挨拶をした際、ついその悔しさが口をついて出てしまったようですが、慶喜は一向に頓着した様子も見せず、「昔のことは、もうよい。それより、民部公子のフランスで様子を聞かせてくれ」と、平然としたものでした。
1年前までは、天下の大将軍だった徳川慶喜が、不平不満も言わず、毅然とした姿でいることに、改めて常人ではない非凡さを感じ、敬服したと伝わっています。
弟である徳川昭武の様子を細かく報告すると、慶喜は大変うれしそうに耳を傾け、満足した様子を見せました。
そして、「民部公子が無事帰国できたのも、そちの働きのおかげぞ」と、栄一にとっては最大の感謝の意を伝えてくれました。
渋沢栄一 昭武に復命ならず!
慶喜が渋沢栄一に対し、意地悪をしたわけではありません。
慶喜が渋沢栄一を守ろうとして下した決断が、復命には及ばずというものでした。
では、そのいきさつを紹介しましょう。
昭武からの手紙を慶喜に渡し、拝謁も済んだ渋沢栄一は、返事はまだかと首を長くして待っていました。
4日目に呼び出された時には、礼服を着て勘定所に行けというものでした。
訳が分からないまま、礼服を借りて出所した栄一をまっていたのは、勘定組頭の辞令書でした。
これにはさすがの渋沢も怒りました。
「私は、昭武公への手紙の返事をもって水戸に戻り、慶喜公の様子などもご報告するよう仰せつかっております!」
これに対し、「水戸への返事は別に出す。復命の必要はない。速やかにお受けせよ」と頭ごなしな返答。
渋沢栄一は、とうとう辞令書を投げ出して帰ってしまいました。
翌日、この決定を下した大久保一翁が、渋沢栄一に直接話した内容は、次のようなものでした。
「お主を勘定方にというのは、実は上様のご内意である。上様は、『渋沢を水戸にやれば、民部公子が信頼している人物であるから、必ず重用されるだろう。そうなると、昔から藩にいる者の中には、面白く思わないものがでる。危害を加えようという者がいてもおかしくない。水戸には、渋沢は当藩にこそ必要だと申して、藩の仕事をさせよ』とのおおせだ」
農民あがりの自分にまで、このような深い温情をかけてくださる主君・慶喜公の気持ちに、渋沢はまたも打たれました。
慶喜公の心遣いである辞令書を投げ捨ててしまった自分を、きっと恥ずかしくも思ったことでしょう。
今度こそ、迷うことなく徳川慶喜公のために働こうと誓った、渋沢栄一でした。
そしてここからいよいよ、近代資本主義の父といわれる活躍が始まっていくのです。
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