2020年のNHK大河ドラマ「麒麟が来る」の主人公明智光秀は、実はここまでに武功と呼べるものは15代将軍義昭を三好三人衆から守ったものだけでした。
もちろん、その時に武将として才覚は信長にも認められたのですが、やはりこの時代出世には武功が必要です。
五か条の覚書で動きを封じられたかのように見えた将軍義昭でしたが、裏では信長を倒すべく私信を送り続けていたのです。
大軍を率いた信長と紙切れ1枚で戦おうとした義昭
足利将軍とはいえ、直属の部下は余り多くはありません。
それも京の暮らしが長いためか、公家化してしまい馬に乗り鉄砲を撃つなどの戦場での働きには向かなかったのではないでしょうか。
しかし義昭の征夷大将軍として実権は、まだまだ強かったというのは事実です。
そして信長を倒すための手紙を、有力な大名に送り続けていたのです。
その中に、光秀が足利義昭と出会った越前の朝倉氏がいました。
朝倉氏は織田が勢いづく前は、武田信玄や上杉謙信、毛利元就といった錚々たる戦国武将の一人と数えられていたのです。
織田としては足利将軍の威を借りてでも討ち取ってしまうか、自分の配下にしてしまいたいと考えたのでしょう。
一方足利将軍からの密書には、自分の命で京に呼ばれたとしても、決して上京するなと書かれていたようです。
二条城の完成祝いに招待されたり、新年の挨拶に足利将軍の住まう二条城に来るようにと促されたりした朝倉氏でしたが、一度も京には向かいませんでした。
光秀出陣!
永禄13年4月20日、信長は幕命に背いたという大義名分を持って、若狭の武藤上野介を討つべき挙兵しました。
しかし実際は朝倉を討つというのが本当の目的だったようです。
織田信長は明智光秀に軍を率いて出陣するよう要請しています。
これでやっと武将として戦場に出る事ができる!
光秀はまさに武者震いをしたのではないでしょか。
手柄を立てれば、もっともっと出世ができる。
当時としては、それ以上に重要な事がなかったのです。
朝倉軍は勢いにのった織田軍になすすべがなく、次々と落城していきました。
越前との境近くで軍を止め、勝ち戦に嬉々としていた信長とその軍団を横から襲ったのが浅井長政の軍でした。
この時既に浅井家と織田家は同盟状態にあったのです。
お市を娶ることで織田家と同盟した浅井長政ですが、その時の約束事を信長が破ったのが原因です。
「越前に攻め入る際は、まずは真っ先に自分に相談して欲しい」というのが、長政の同名の条件だったのです。
浅井家は朝倉家に対し、絶対に絶縁できない深い恩義があったのです。
その条約ともいえる同盟の約束事を、いとも簡単に織田信長は破ってしまったのです。
この時の信長の逃げ足の速さと小心さには、付き従った誰もが驚いたと伝わっています。
撤退の指示もださず、単身で馬にまたがり一気に京に逃げ帰ろうとしたのです。
どうすれば良いかと聞いた秀吉に対し、お前が殿軍を務めろと言い捨てて逃げたといわれています。
敗戦で逃げる軍の最後尾で味方が逃げるための防衛線を受け持つ軍を殿軍といいます。
殿軍を任されたのは、秀吉軍と池田軍でした。
家康は自分の軍の足軽鉄砲隊を秀吉に貸したといいます。
光秀は特に殿軍を支持されたわけではありませんが、進んで秀吉を助けました。
両側の茂みに自分の鉄砲隊を隠し、襲ってくる浅井群を蹴散らしたのです。
こうした光秀の働きもあって、織田軍の犠牲は僅かで済み、ほぼ全ての軍が無事撤退できたのです。
これが有名な「金ヶ崎の退き口(かねがさきののきぐち)」です。
秀吉を英雄視した太閤記という本では、秀吉一人の手柄と書かれていますが、史実がそうでは無いことを証明しています。
当時の史資料の一つ、「武家雲箋(ぶけうんせん)」には、木藤(秀吉)、明十(光秀)、池筑(池田)その外残し置かれと書かれています。
こうして光秀は危険な殿軍に参戦することで、信長に実質的な最初の武功を認められたのです。
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