2021年NHK大河ドラマ「青天を衝け」の主人公・渋沢栄一は、武士になってもやっぱり商人でした。
当時の公家や武家の大半は、実は貧乏所帯というところも少なくありませんでした。
だから商家からお金を借り、代わりに名字帯刀を許すといった摩訶不思議なことが普通にまかり通っていたのです。
一橋家の家臣になった栄一は若い時から培った商才を、藩の財政のため領民の暮らしのために遺憾なく発揮しました。
1865年渋沢栄一が勘定組頭並に出世した理由
兵を募集しながら一橋家の領内を歩いた栄一は、その土地の特産品や米の出来高や味などを詳しく調べました。
またそれらの販売方法や流通経路までも徹底的に調査したのです。
十代のころから藍の葉を買い付け藍玉の売買をするにあたり、どうしたらもっと大きな利益が出るのかを研究してきた成果が、武士になったここで最初の花を咲かせたのです。
栄一はこれらの流通の改革案を建白書として提出。
絶大な支持を得て、それを実行するために勘定組頭並の役を仰せつかったのです。
渋沢栄一が考案した実際の方法
年貢米は蔵宿と呼ばれる年貢米の仲介を請け負う商人に渡され販売し、手数料を差し引いた金額を藩が受け取るのが普通でした。
栄一はこの年貢米を灘の酒蔵に入札で直接販売をしたのです。
結果は2割増しの収益となりました。
播磨特産の木綿は領民が直接大阪などに売りに行くため、買いたたかれることが多かったそうです。
姫路藩などは藩が木綿を買い取り、江戸や大阪で高く売りさばいていました。
渋沢栄一はこの隙間に上手く潜り込んだのです。
木綿を領民から買い上げるまでは姫路藩と同じですが、売値を他藩より安くしたのです。
勿論領民からは木綿を高く買い上げたのは言うまでもありません。
播磨の木綿は元々質が良いことで有名でしたから、飛ぶように売れたでしょう。
領民も利益を得られることで木綿つくりは益々盛んになるという相乗効果も生まれています。
ただ木綿の栽培や機織りといった仕事を拡大したくても、まずは元手が必要です。
そこで栄一は藩札を流通させることにしました。
しかし当時の藩札は裏付けがないことが多く、むやみに発行されたものさえあるため、非常に信用が低いものでした。
栄一は藩札3万両に対し同額の3万両を準備し裏付けとしました。
これで藩札は正価どおりとなるため、誰もが安心して藩札を仕えるようにしたのです。
藩札の引換所は大阪の両替商5軒。
こちらには合計1万5千両を貸し付ける形で現金を置き、その利子は藩に入ってくるという利点もありました。
残り1万5千両は領内に藩札引換所を作りそこに備えたのです。
藩札は木綿の売買にのみ限定して使われました。
木綿やそれを織った反物を領民から買い付けるのは藩札。
領民をそれを領内の藩札引換所で正価で交換することも可能。
売り裁いた代金は大阪の両替商に納めるという仕組みです。
両替商に対する貸付金も増え、その利子として入るお金が一橋家を潤しました。
しかし失敗したもののあります。
備中の特産品である硝石は火薬の原料です。
そこで火薬の製造所を4カ所作り火薬製造を開始したのですが、質の良い火薬を作ることはできず断念しています。
1866年渋沢栄一は勘定組頭に出世
功績を認められた栄一は1年足らずで組頭並から正式な組頭に出生です。
200年続いた江戸時代のままの組織ですから業務の無駄が多く、それを改革せよという特命を受けたのです。
そこで栄一が最初にしたのは、部下や同僚に現在の仕事の手順や内容を細かく具多的に聞いて回ったのです。
煩雑で重複した業務を洗い出し、内容によっては他部署に振り分けたり統合したりしてスッキリさせました。
仕事がスッキリすると当然ですが人が余ります。
リストラができる時代ではありませんし、渋沢自身もそうした事を良しとしない人物でしたから、よくよく意見や希望を聞いたうえで異動という方法をとったようです。
いつの時代も改革には、現状を知ることが大切な最初の一歩であることに変わりはないようです。
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