2020年NHK大河ドラマ「麒麟が来る」の配役、第三弾では徳川家康を風間俊介さんが演じます。
風間さんのコメントで
「震えています。 歴史上、数々の偉人がいますが、その中でも徳川家康を演じさせていただける日がくるとは。」とありますが、日本的には余り人気のない家康です。
ただ、海外での評価はとても高いのは事実。
戦でも、大将は相手の最初の一撃を受けるための剣の鍛錬は必要だが、相手を切る剣を磨く必要はないといったと伝わっています。
それくらい人を登用し使うことに長けた、リーダーとしての素養が高かったことが評価されています。
徳川幕府が堅個なものになったのも、家康配下の幕臣たちの働きがあってこそというのが事実でしょう。
誰でも知っている徳川家康ですから、かれの人生には軽く触れ、家康の〝ドケチエピソード”を紹介したいと思います。
徳川家康の一生
三河国の土豪である松平氏の第8代当主・松平広忠の嫡男として1543年1月31日寅の刻(午前4時頃)に岡崎城 にて誕生。
母は水野忠政の娘・於大(伝通院)。
幼名は竹千代(たけちよ)というのも知られたところです。
家康が生まれる前、武勇で知られた祖父・清康は1535年、守山城攻略を目指して織田信秀(信長の父)と対陣中、部下に斬殺されてしまいました。
これ以降松平家は流浪の日々を送ることになり、この時父・宏忠はわずか13歳でした。
それを救ってくれたのが今川義元です。
無事岡崎城に戻れた松平宏忠ですが、この恩義ゆえに今川には逆らえない状況でした。
そして生まれた家康ですが、3歳にして母と生き別れになります。
母の兄、水野信元が今川と敵対する織田方についたため、母である於大が広忠から離縁されてしまったのです。
そして6歳の時、織田と戦うために援軍を今川にお願した父・宏忠ですが、人質として家康を出すよう言われてしまいます。
ところがここで人質の横取り事件が起き、なんと織田で2年も過ごすことになりました。
この2年の間に、父・宏忠は家臣に殺されてしまいます。
義元は成年の当主が不在となった松平家を支配下に置き、人質交換で竹千代の身柄を駿府に移します。
駿府での生活が家康に多大な影響を及ぼし、大将としての器を形成したのではないかといわれています。
名門今川家に仕える名僧たちに勉学を学び、その中には今川義元が軍師としても頼りにした太原雪斎もいました。
こうして桶狭間後に独立した一大名となり、織田と朋友関係を結び、秀吉配下とはなったものの秀吉没後は天下を治めることになります。
応仁の乱以来100年以上続いた戦国の時代を終結へと導いたのです。
ドケチ家康
「ふんどしは黄色」
これは汚れが目立たず、何度も洗濯をする必要がないからという理由。
家臣にもそうさせようとしたらしいですが、聞く者はいなかったとか。
「厩(うまや)は壊れたままでOK」
雨風に打たれた方が馬が丈夫になるからという理屈。
「小銭まで大切にした話」
代官からの金銀納入報告を直に聞き、貫目単位までは蔵に収め、残りの匁・分単位を私用分として女房衆を集めて計算させたという話が『翁草』に残っています。
「日常のケチ話」
家来たちが部屋で相撲をとっていると、畳が傷まないよう裏返せと命じました。
漬物が不味いと料理人に苦情をいったところ、「今でも侍女たちはたくさんおかわりしているのに、おいしい漬物を出したら何杯おかわりするかわからない」という返答があり、笑ってうやむやにしたとあります。
「チョッと良いケチ話」
戦国の時代には百姓にばかり苦労させたのに、自分だけ飽食できるかと言い、麦飯を食べていたそうです。
ケチな征夷大将軍でしたが、こうした節約が徳川に莫大な財を残し盤石な礎を築く資金になったのは言うまでもありません。
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