2020年NHK大河「麒麟が来る」 主人公明智光秀の子孫

2020年NHK大河ドラマの主人公、明智光秀の子孫については、噂程度のものが多いようです。

豊臣秀吉に敗れたあと、明智の城を守っていた明智秀満は場内にいた明智一族を手にかけ、自らも自刃する形で亡くなっています。

事実上、ここで明智一族は途絶えたという事になります。

しかし明智光秀には、分かっているだけでも5人の子供がいたとするのがルイス・フロイの日本史です。

一方「明智系図」では、13人の子供がいたとされています。

子供が何人いたのかは事実上不明ですが、その中には当然生き延びた人もいたでしょう。

そして近年になって明智光秀の子孫であると、名乗り出る人も少なくありません。

明智光秀の一族は、秀吉の天下になった時、姓名を変えて生きていました。

徳川の世になった時、光秀の立場は決して主殺しの逆賊という立ち位置ではありませんでした。

家系図については、後世の人が自分を売り込むために勝手に書き加えるという事が横行していたそうです。

それを考慮すると、確実に光秀の血を引くとされる人物は絞られてきます。



細川ガラシャが伝えた光秀の血脈

細川ガラシャには3人の男子と2人の女子がいました。

2人の娘のうち、稲葉一通に嫁いだ多羅が産んだ子が数世代後、幕末明治維新で敵対した岩倉具視と徳川慶喜へと繋がります。

また同様に今生天皇に至るまで、脈々と明智の血は流れています。

昔は家柄が結婚においては一番重要な事でした。

ですから一般人とは違う高みを、明智光秀の血は伝えらえてきたのでしょう。



坂本龍馬と明智光秀


明智光秀の子孫として一番名高いのは、坂本龍馬ではないでしょうか。

しかしそれを実証する資料はありません。

龍馬本人も土岐の血を引いていることを知っていたという専門家もいれば、坂本龍馬子孫説が出たのはもっと後の事だという専門家もいます。

確かに四国の長曾我部氏と光秀、光秀の重臣斎藤利三には、強い繋がりがありました。

明智光秀の子の誰かが、四国に逃げ延びたという事が無かったとはいえません。

坂本龍馬を子孫としたのは、光秀の居城だった坂本城と同じ「坂本」だったことと、龍馬の家紋が桔梗紋の一つ「組み合い角に桔梗」という紋だったからではないかいう説が有力です。

そしてもう一つ、「亀山社中」の亀山が地元の地名ではなく亀山城から取ったのではともささやかれています。

坂本龍馬が明智光秀の子孫という説が出たのは、明治16年土陽新聞に掲載された坂本龍馬の伝記小説「汗血千里駒」が発端でした。

しかし坂本家の系図では、1558年から1570年の間に土佐国殖田豪才谷村に移り住んだとあります。

光秀の本能寺の変は1582年ですから時系列にずれがあります。

また坂本家の本家筋の家紋は「丸に田の字」であり、なぜ組み合い角に桔梗の紋を使ったのかは分かっていません。

いずれにしろ、歴史とはロマンでもあります。

坂本龍馬が明智光秀の血を引いていたらと想像すると、幕末の維新戦争もまた違った見方がでてきます。

不思議な事に、光秀と龍馬は似たような詩を残しています。

明智光秀
「心しらぬ人は何とも言はばいへ 身をも惜まじ名をも惜まじ」

坂本龍馬
「世の人は我を何とも言わば言え 我が成す事は我のみぞ知る」

どちらも誰になんと言われようと、自分は自分の役目を果たすのみという強い思いが見て取れます。

 

明智光秀の子孫についてまとめ

愛妻家だった光秀の名言に、「たとえ天下をとったとしても、妾(側室)は持たぬ」という言葉があります。

しかし近年側室の子孫だと名乗る人が沢山いるという事実があります。

側室の存在どころか、光秀の出生や系図も定かではない中で、言ったもん勝ち的な都合もあるのかもしれません。

名言の通り、側室は持たなかったと筆者は信じたいと思います。



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