2020年NHK大河ドラマ「麒麟がくる」では、道三にお金を借りて鉄砲を購入たり、鉄砲鍛冶を探しだしたり、射撃の訓練をしたりといった場面がありました。
本当に明智光秀は、鉄砲の名手だったのでしょうか?
ドラマで描かれた姿が、真実に近いものかどうか、公表されいてる史実を元に検証してみます。
『信長公記』による光秀と鉄砲
信長公記とは、戦国時代から安土桃山時代を生きた織田信長の一代記で、書いたのは織田家家臣の太田牛一。
ゆえに、かなり史実に基づいているのではないかといわれるものです。
ただ、太田牛一は、信長の家臣ではなく、信長の死後、家臣だった丹羽長秀に文官(秘書)として仕え、長秀没後は豊臣秀吉に仕えたという人物です。
自分で見た事実を書いたというよりは、見聞きしたことや、長秀・秀吉時代の資料を元に編纂された「読み物」の一つということです。
この信長公記には、「射倒し」という記述があり、これが鉄砲ではないかといわれています。
では、その「射倒し」た場面とは・・・
明智光秀が足利義昭を守り、三好三人衆と戦った六条合戦といわれる場面です。
多勢に無勢で、防衛するのがやっとの状態の中、光秀の鉄砲で難を逃れ、駆け付けた細川藤孝らの援軍もあって撃退したと記載されているようです。
細川藤孝の細川家の記録『綿考輯録』(めんこうしゅうろく)による光秀と鉄砲
各家系では、様々な資料が残されているようですが、細川藤孝家の『綿考輯録』にも、光秀と鉄砲についての記述があります。
それには、明智光秀は大筒の妙技を持っていると書いてあるのです。
この時代の大筒とは、大砲のことではなく、口径の大きな火縄銃を指します。
妙技と書かれているくらいですから、人が驚くほどの腕前を持っていたと思っても良いのではないでしょうか?
『麒麟がくる』時代考証担当・小和田氏談
2020年NHK大河ドラマ「麒麟くる」の時代考証を担当されている小和田哲夫教授は、書籍の中の特別コラムで、鉄砲と光秀という内容執筆されています。
コラムには、次のような記載があります。
『金ヶ崎の戦いの時、朝倉軍に追われて退却する織田軍の殿軍を任されたのは、木下藤吉郎であるというのが、後の世の通説になってはいるが、実際は光秀たちも殿を守り、織田軍の退却に貢献したというのが事実では無いかと考える。明智軍の鉄砲隊が、朝倉軍の追撃を許さなかった大きな理由のはず』と考察されています。
これは、当代記などの歴史的資料の検証がされた結果ということですから、麒麟がくるの場面ではどう描かれるのか、楽しみに待ちたいところです。
歴史は勝者が作るというまさにそれで、金ヶ崎の退き口の話は、後の豊臣秀吉が書かせた物語が史実として今に伝わっているものです。
自分を自伝ですから、かっこよく書かせるのは当然のこと。
明智光秀という人物は、勝者でなかったばかりに、数百年の間、悪者扱いされてきたのだと、改めて感じてしまいます。
信長が長篠の戦いで武田を破った際の鉄砲隊も、明智光秀あればこそだったのではないかというのが、現代の通説になっています。
まとめ
今まで放送された『麒麟がくる』の中では、鉄砲という武器に先見の明で白羽の矢を当てた光秀という前振り以外、特に鉄砲を使った活躍シーンはありませんでした。
しかしこの後は、光秀と鉄砲という見せ場があるのではないかと期待してしまいます。
放送再開はまだまだ未定の麒麟がくるですが、益々楽しみが増えました。
首を長くして、放送再開を待ちたいと思います。
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