2021年NHK大河ドラマ「青天を衝け」の主人公、渋沢栄一が26歳になった1865年。
渋沢栄一のその後の生き方・姿勢に多大な影響を与えた阪谷朗盧(さかたにろうろ)に出会いました。
渋沢栄一が新しいお役目で見せた技量と、阪谷朗盧との出会いを紹介します♪
渋沢栄一・歩兵取立御用掛の任を受けて岡山県へ
当時の備中後月郡井原村、現在の岡山県井原市で栄一は徴兵活動を行います。
長棒の籠に乗り兵士らを従え、一橋慶喜直々の命で向かったものです。
到着すると代官や庄屋たちが平伏していました。
そんな中で募兵の重要性を丁寧に説き代官や庄屋たちに申し付けたのですが、返ってきた返事は「栄一自ら勧誘しろ」というものでした。
温厚な栄一も多少なりともムッとしたことでしょう。
しかし自分が父の代理で出向いた血洗島村での代官の所業を思い出し、そうはならないためにもとそれに従ったのです。
あちこち出向いて募兵の趣旨を説明して回っても、誰ひとり応募してくるものがいません。
これを不自然と感じた栄一は、何か裏があるに違いないと考え探りをいれることにしました。
地元で学問や武芸に優れた人と交流し情報を得ようとしたのです。
その折、誰の口からも一度は聞かされたのが、阪谷朗盧の名でした。
渋沢栄一と阪谷朗盧
阪谷朗盧は1822年生まれ、6歳の時から大潮平八郎の塾で学んだ秀才です。
17歳で幕府の昌平黌(しょうへいこう)の教授・古賀桐庵(こがとうあん)に指示し、塾頭にまでなっています。
帰郷した阪谷朗盧は1853年地元の興譲館(こうじょうかん)の初代館長に任命され、徐々に全国にもその名声が轟いた人です。
渋沢栄一は早速阪谷朗盧に会いに行きました。
酒を酌み交わし論じ合う中で、西欧文化に明るい阪谷は開国を主張。
一方渋沢は、日本が欧米列強に並ぶ力をつけてから開国すべしと反論しました。
しかし平岡に会って身に付けた「人の意見を聞き理解する」というスタンスで、決して自分の意見のみをごり押ししない渋沢に阪谷も好意を感じたのでしょう。
2人は大いに飲み、意見を交わし、笑い合って楽しい時間を重ねました。
また阪谷の近くには関根という剣術家がおり、地元では名の知れた剣豪でした。
余興のつもりで渋沢と手合わせをしたところ、あっさり渋沢が勝ってしまったのです。
こうしたことが噂となり、「今度のお役人は学問にも武芸にも優れた凄い人」だという噂が流れ始めました。
渋沢栄一・募兵成功
渋沢の噂を聞きつけた若者が、兵士として召し抱えて欲しいと渋沢の宿にやってきました。
栄一は再度庄屋たちを集めて、こう言ったのです。
「不思議千番なこともあるものだ。拙者の宿に兵士に応募したいという若者が来て志願書をおいていった。なのにそちらの紹介では誰一人も応募がない。拙者は一橋公の命でここに来てる以上、もし裏で志願者を止めるようなことをしているのであれば、不届き者として斬り殺すことも辞さない」
この脅しにおびえた庄屋は、とうとう白状しました。
実は代官から内々にいわれていたことがあるのです。
「一橋家の役人の申す事をいちいち聞いていると領民も難儀するだけだ。今回も志願者は誰もいないと言えばよい」
これを聞いた栄一は代官の陣屋に乗り込みました。
「この度の使命は、一橋公直々の命であり、非常に重大な役目である。このまま庄屋からの志願者の申し出がないようであれば、その原因を究明する必要がある。拙者はもちろん、代官である貴殿にも職務怠慢の責めが問われるのは必定。そこで改めて貴殿から庄屋たちに話をし、役目が果たせるよう尽力してはくれまいか」
代官は裏工作がバレたことを察知し、慌てて徴兵に励みました。
結果、備中後月郡井原村で200人前後、その他の領地からの募兵を合わせると450人ほどを集めることに成功したのです。
坂谷朗盧「在野に生きる」
江戸に戻った栄一は、領内の様子などを慶喜に報告します。
同時に、郷里の子弟教育に熱心なもの、親孝行な者、農業に秀でた人たちに報償を提案し実現させました。
農民として産まれ育った渋沢栄一の真骨頂といえるかもしれません。
この時、阪谷朗盧についても多いに賞賛したことは言うまでもありません。
慶喜は阪谷を京に呼び功績を称えて銀5枚を与えようしましたが、坂谷は興譲館の教師たちにと断ります。
文武館の教授にという内命を受けましたがそれも断りました。
あくまでの在野の人材を育てる事が自分の使命!という強い信念をもっていたからです。
こうした坂谷の生きざまは、渋沢栄一にも大きな影響を与えていきます。
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