明智光秀 岐阜でゆかりの地はどこ? 2020年NHK大河ドラマ「麒麟がくる」Ⅲ

2020念NHK大河ドラマ「麒麟が来る」の舞台の一つとなる岐阜県。

明智光秀ゆかりの地をⅠ・Ⅱに引き続き紹介します。

 

[su_highlight background=”#0ad0d1″ color=”#fefdfd”]明智光秀ゆかりの地Ⅱの記事はこちらへ… ⇩[/su_highlight]

明智光秀 岐阜でゆかりの地はどこ? 2020年NHK大河ドラマ「麒麟がくる」Ⅱ

 

岐阜は光秀が活躍した時代、中心的な要所という役割をもっていた場所です。

沢山の武将たちが息吹が、そこかしこに残っていますが、あくまでも明智光秀ゆかりの地にスポットをあてて解説します。



明智光秀供養塔

明知遠山家の菩提寺である龍護寺に、明智光秀公の供養塔があります。

光秀の碑はことごとく割れると言われていますが、龍護寺にある供養塔も例外ではありません。

光秀の悲痛な思いがそうさせるということで、毎年5月3日の光秀祭りに合わせて供養が行われています。

さて、明知遠山氏の菩提寺になぜ明智光秀の供養塔があるのでしょうか。

まず一つ目は、明知遠山氏と土岐氏の間に何かしらの関りがあったらしいということがあげられます。

明知遠山氏代々の墓地には、二座の如意輪観音菩薩像が安置されています。

左側の像には明知遠山氏の丸に二つ引きの紋、右側の像には丸に桔梗紋がつけられています。

明知と明智の関係について、一説には明知と明智と同じではないかという説もあります。

足利幕府からの文書には「遠山庄明智村や明智遠山景保」といった文字が残っています。

しかし江戸時代に入ると明知と名乗っているようです。

これは本能寺の変を境に追求を恐れ、明知としたのではないかと考えられています。

そしてもう一つは、龍護寺に保管されているという明智光秀のものとされる九条衣の袈裟です。

「ある夜、落武者が訪れ、無念の主君光秀公の直垂(ひたたれ)を持参し永代供養を請うて去った。」という伝承があります。

直垂とは室町時代までは公家が着用していたもので、その後公家の没落が始まると武将も身に付けるようになりました。

着物の上から羽織っていたもので、平服から正装まで決められて様式があったようです。

現在は非公開ですが、龍護寺に伝法衣として伝わる九条袈裟は四隅に光秀公の遺品が縫い付けられているそうです。

当時の風潮を思い、光秀公を偲ぶ人々の気持が伝わってくるようです。

余談ですが、この明知遠山氏は桜吹雪でお馴染みの遠山の金さんの家系です。

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一日市場八幡神社(ひといちばはちまんじんじゃ)

土岐一族の始祖、源光衡が本拠となる館を構えた場所とされています。

境内には、明智光秀の像が建てられています。

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明智光秀生誕地 落合砦と産湯の井戸

明知城が1247年に築城されたころ、この千畳敷台地に落合砦を築いたと伝えられています。

明智光秀公はこの砦で生まれ、産湯として使ったと伝わる井戸が残されています。

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天龍寺 日本一大きな光秀の位牌

先に紹介した明智城址公園北口からみて東側にある天竜寺。

明智氏歴代の墓所があるお寺ですが、中でも有名なのは184㎝もある巨大な光秀公の位牌です。

この184㎝には、命日6月13日にちなむ、6尺1寸3分(180センチ超)という理由があります。

合わせて光秀公の像も安置されています。

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立政寺(りっしょうじ)

越前朝倉氏の元にいた足利義昭。

明智光秀と細川藤孝の仲介で織田信長に将軍即位の後ろ盾になって貰おうとした際、織田信長が足利義昭を迎え寺がこの立政寺です。

歴史の分岐点にもなった重要なお寺です。

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次のシリーズⅣで岐阜県にある明智光秀ゆかりの地の紹介はおわります。

Ⅳでは、土岐氏の氏神・十五社神社と朝倉氏との関係。

母・於牧の方の墓所と、現在の解釈について解説します。

 



 

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