2020年NHK大河ドラマ「麒麟が来る」で松永久秀役に抜擢されたのは、吉田鋼太郎さんです。
渋い役からコミカルな役まで、なんでもできる素晴らしいバイプレーヤーのお一人。
筆者がこれまでにアップした明智光秀の生涯の中でも、何度か登場したことがある松永久秀ですが、今回は彼の生涯を追ってみたいと思います。
戦国三大梟雄(きょうゆう)とは、どんな意味でしょうか。
それは、残忍で勇猛な人物という意味です。
何しろ猛禽類である梟(ふくろう)の雄(おす)ですから。
しかも夜行性の梟になぞられた理由がもう一つ。
昼間はじっとしていて、夜になると狩りを始める梟のごとく、人の目には決して触れない裏側で暗躍するということを指します。
しかも戦国三大梟雄の他に、日本三大梟雄といわれる人たちも存在します。
ちなみに、戦国三大梟雄は、「松永久秀」「斎藤道三」「宇喜多直家」
日本三大梟雄は、「松永久秀」「北条早雲」「斎藤道三」
松永久秀と斎藤道三は、どちらにも名を連ねているということは、相当非道な人物だったのでしょうか?
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松永久秀の生涯
生まれたのは1508年。
出身につていはこちらもご多聞に漏れず幾つかあるようですが、最近では摂津国五百住の土豪出身が有力となっています。
1533年ころから細川氏の被官・三好長慶の書記として仕えていたようです。
1540年に松永久秀が書いた書簡が現存しています。
三好家では、外様であろうと身分が低かろうと能力があれば登用するという慣習だったらしく、松永久秀が次第に頭角を現してきたのも、こうしたことが起因しているのではと言われています。
1549年、三好長慶らが当時の将軍だった足利義輝を追放し京を支配すると、それを好ましく思わない公家や寺社が現れます。
松永久秀は、これらの仲介役として活躍しました。
三好長慶が京に上洛した後、松永久秀は三好家の家宰となり、弾正忠に任官しました。
そのため松永久秀はあ、松永弾正とも呼ばれています。
1588年5月には、13代将軍義輝の軍が京に進軍。
松永久秀らは、それと戦い和睦しています。
1560年には和睦した将軍義輝から従四位下・弾正叙位に任官され、幕政にも携わるようになっていきます。
将軍義輝からは御供衆へ任命され、久秀は三好家家臣・長慶被官として活動するのと同時に、義輝の側近のような立場としても活躍していた様子が伺えます。
この同時期に、三好家嫡男・三好義興が義輝の相伴衆に任命されています。
松永久秀は、桐紋の使用を許可されている事などから、三好家嫡男・義興と同等の地位とみなされていたのではないかと考えられます。
大和を平定し、多門山城を築城し、ここに日本で始めての天守閣を作ったのも松永久秀でした。
三好家一番の出世頭ではありますが、三好長慶を脅かしたような形跡はまったく見つかっていません。
将軍義輝と敵対し近江に追い落とした時は、天罰だとまで言っていた松永久秀ですが、こうして幕府内での勢力が大きくなってきたころには、将軍との関係が悪かったとは決して言えない関係だったように思えます。
ところが1565年三好三人衆が将軍義輝を討つ事件が勃発します。
この事件は松永久秀が首謀者ともいわれてきましたが、実際はこのときの松永久秀は大和国にいました。
義輝の殺害は容認し、義昭を操ろうと考えていたともいわれています。
しかし畿内の主導権争いが激化すると、三好三人衆とは敵対します。
畿内の覇権争いで、有名な東大寺大仏殿の焼失があります。
これも松永久秀が放火した説が一般的ですが、ルイス・フロイトによると三好三人衆側のキリシタンが放火したと記載しています。
この戦いの最中、日本で初めてクリスマス休戦を実施した人物が松永久秀であるという言い伝えも残っています。
一進一退を繰り返し、徐々に三好勢におされていた松永が考えた策が、信長の上洛の手助けをすることでした。
1568年9月、足利義昭を擁立した信長は上洛に成功し、信長の上洛に協力した久秀は、当初は信長の同盟者の立場にありました。
10月2日には信長に対して人質と、名物といわれる茶器「九十九髪茄子」を差し出しています。
その後織田家の中でそれなりに活躍してはいましたが、15代将軍足利義昭が織田包囲網を作る中、松永久秀は義昭と通じていたという形跡があり、このころから信長に敵対心を持っていたのではないかと考えられます。
1572年、ついに久秀は信長に対する敵意を明らかにし、三好義継、三好三人衆らと組んで信長に対峙しました。
多門山城を包囲され敗れた松永久秀は、信長に降伏し許されています。
しかし1577年の本願寺攻めから勝手に離脱。
信長の命令に背き、信貴山城に立て籠もり再び対決姿勢を明確に表しました。
信長は松井友閑を派遣し、理由を問い質そうとしたが、使者には会おうともしなかったという記述が信長公記に見られます。
信長は大群で攻め込み、武将の一人佐久間信盛は名器・古天明平蜘蛛を城外へ出すよう求めたとされます。
久秀は「平蜘蛛の釜と我らの首と2つは信長公にお目にかけようとは思わぬ、鉄砲の薬で粉々に打ち壊すことにする」と返答したと川角太閤記にあります。
織田軍の攻撃により、久秀は10月10日に平蜘蛛を叩き割って天守に火をかけ自害したとあり、こちらも日本で初めて爆死とされました。
松永久秀の三悪とは
松永久秀には、後世に残る三つの悪事があると伝わっています。
〇足利将軍の殺害
〇主君・三好家への謀反
〇奈良の大仏殿を焼いた
信長が家康に松永久秀を紹介したときに、
「この老人、これまで人のようせぬことを三つしよった。」
といって、上の三つの悪事を面白おかしく語ったそうです。
しかし最近になって、すべて冤罪ではないかといわれるようになりました。
まず将軍殺害については、上記のとおり直接関わった証拠はありません。
奈良の大仏についても、キリシタン説が有力です。
一方、当時は下克上が当たり前の世の中でした。
力を持ったものが主君を倒すことは、決して悪ではありません。
これを悪としたのは、平和な江戸時代に入ってから、家格秩序を乱すことを罪としたことに始まります。
また江戸時代の歌舞伎などでも、悪役の筆頭が松永久秀だったこともあり、悪人というイメージが後世に伝わったのではないでしょうか。
まとめ
とにかくエピソードが濃すぎて書ききれないくらいあります。
松永久秀を大河ドラマにしても良いくらいの人物です。
2020年NHK大河ドラマ「麒麟が来る」では、余り多くない出演になるかもしれませんが、インパクトが強いだろうことは想像できますね。
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