三淵藤英とは?室町幕府最後の幕臣!麒麟がくるでは谷原章介さん

三淵藤英を2020年NHK大河ドラマ「麒麟が来る」で演じるのは、谷原章介さんです。

最近ビジュアルも公開され、室町幕府に忠義を尽くした三淵藤英の頑固で知的・正義感に溢れた武将の姿を、見た人も多いと思います。

谷原章介さん演じる三淵藤英のキャッチコピーが、「室町最後の幕臣」です。

15代将軍・足利義昭が織田信長に敗れた後、織田の軍門に下ってはいますが、室町幕府事態が壊滅した状況ですから、このキャッチコピーにはうなずけるものがあります。

筆者個人としては、この名前を知りませんでした。

でも、細川藤孝の実兄(異母兄の説あり)にあたる人物で、当初は藤孝同様幕臣として足利幕府に仕えていた人物です。

あまり資料が少なくて調べるのが大変でしたが、分かったことを紹介してみます

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三淵藤英とは

前述したとおり、幕臣として、将軍・足利義輝、足利義昭に仕えていました。

父は室町幕臣として13代将軍足利義晴に仕えた三淵晴員。

藤英は、その後継者として周知されていました。

三淵藤英も、当初は父・晴員と一緒に、13代将軍・足利義晴に仕えており、わずか12歳で相国寺鹿苑院へ使者として派遣されたという史実が残っています。

その後、将軍が義晴、義輝、義昭と代わるに従い、三淵藤英も主を変えて仕えてきたということです。

こうした出自だけをみると、位の高い武士の家に生まれ、何の苦労もなく・・・と思ってしまいますが、世は戦国時代に突入した
時期です。

武人としても信頼の厚い人だったようです。

三好3人衆により足利義輝が殺された後、出家していた足利義昭を監禁されていた興福寺から弟・藤孝とともに救出しました。

近江国矢島にて足利義昭を還俗させています。

そして越前国の朝倉義景を頼り将軍職復帰を画策しました。

しかし朝倉氏は全然乗り気ではなく、その様子に諦めかけていた時に、明智光秀と出会うのです。

光秀が当時勢いがあった織田信長を頼ってはどうかという提案をすると、是非にということで即諾でした。

朝倉氏も、もしかしたら厄介払い程度の考えてたかもしれません。

朝倉家に仕え始めたばかりの光秀が、織田に向かうと聞いても特に止められはしなかったようです。

足利義昭を擁護して、三淵藤英・細川藤孝・明智光秀が織田に足利将軍の後ろ盾をお願いしました。

もちろん、織田にとっては京に上る絶好の機会到来です。

早速信長は、義昭を擁立して京都の入り、三好三人衆を撃退します。

将軍の安全を考慮して、新たに堅個な二条城まで建ててあげたりもしています。

義昭が将軍になると、三淵藤英は幕府重臣の一人として、山城国で伏見城周辺の守備を命じられました。

その後も南山城の軍勢を率いて三好氏との戦いに参加する一方、政治にも手腕を発揮して義昭の右腕となっていきます。

永禄11年(1568年)には、大和守に叙任しました。

しかし、「父信長」とまで言っていた義昭ですが、だんだん信長を疎むようになっていきます。

義昭と信長の対立を機に、弟・細川藤孝は織田側につきました。

これに激怒した藤英は、藤孝の居城であった勝竜寺城を襲撃する計画を立てましたが失敗に終わりました。

1573年、いよいよ義昭が挙兵するとそれに従います。

義昭は二条城を出て槇島城に籠城、二条城は三淵藤英に任されました。

二条城に籠城した藤英ですが、織田軍に囲まれ蜜淵藤英とその軍以外は全て退却。

戦うこともできないまま、柴田勝家に説得されて降伏にいたりました。

いったんは信長に召し抱えられ参戦したりもしましたが、1年後突然領地を没収され、明智光秀の居城・坂本城に送られ、切腹を命じられたのです。

自害を命じられたのは三淵藤英と彼の嫡男・秋豪でした。

次男・光行は藤孝に預けられてそのまま細川氏に仕えています。

藤英・藤孝兄弟の関係

三淵家は山城国三淵庄に住んでいたので、姓を三淵としたとあります。

三淵家六代目当主晴員は細川家の出身ということですから、元々三つ淵家と星川家は繋がりが濃かったのでしょう。

晴員には五人の男子があり、長男は七代目を継いだ大和守三淵藤英です。

次男の藤孝は細川家の養子となって細川姓となりました。

三男は大徳寺塔頭高桐院を創建した玉甫紹琮です。

実は細川家には、庭園を愛するという特質があったそうで・・・

三淵家の岡崎の屋敷の庭園にも、名石が沢山あったそうです。

そこでそれらが大仙院に引き取られたのは、三男の玉甫紹琮の縁ではないかといわれています。

三淵藤英の室町幕府でのポジション

三淵藤英が、足利義昭の重臣であり、かなり高い地位を持っていたことは、上記の流れでも十分推察できます。

戦国時代の武人として影が薄いのは、織田信長を始めたとした群雄にあまり関わっていなかったからかもしれません。

では、実際の三淵藤英の役職は、なんだったのでしょうか?

三淵藤英の役職は『奉公衆(ほうこうしゅう)』でした。

この奉公衆の仕事の内容を、簡単に紹介します。

三淵藤英が所属・あるいは統括していた奉公衆とは、将軍直属の軍隊を指します。

残された資料によると、人数は平均して5000人から10000人規模の軍事力であったようです。

三淵藤英は、後にお傍衆ともいわれた、武官官僚の位置にありました。

三好三人衆が将軍・義昭を狙った本圀寺の変では、三淵藤英も戦いに参加に、無事将軍を守りぬいています。

三淵藤英は奉公衆の仕事だけではなく、幕府の実務処理を担っていました。

織田と将軍・義昭のパイプ役として活躍して頃の明智光秀とは、何度も顔を合わせ知恵を出し合っていたのかもしれません。

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