グダグダだった朝倉義景の一生

NHK大河ドラマ「麒麟がくる」の越後編で、ユースケ・サンタマリア演じる朝倉義景が登場しています。

当時、足利幕府も頼りとする大きな大名でした。

やがて、織田に攻めれ、最後は親族に裏切られ、自刃して亡くなっています。

立ち回りが上手ければ、もしかしたら天下に号令していたかもしれない、絶好のポジションにいたにも関わらず、結局は朝倉家を滅亡させた人物となってしまいました。



朝倉義景の出生と足利幕府との関係

御多分に漏れず、朝倉義景が家督を継ぐまで、彼についての記録はほとんどありません。

1533年9月24日、朝倉孝景の嫡男として誕生。幼名は長夜叉。

16才のとき、父・孝景が56才で亡くなり、家督を継ぎ、延景と名乗り、幕府にも代替わりの挨拶にいった記録があります。

ただ、幼かったこともあり、実質的には従曾祖父の朝倉宗滴(教景)に補佐される形でした。

1552年、13代将軍・足利義輝の義の字をもらい、義景と改名。

幕府の一等官である「左衛門監」を杯名し、歴代朝倉家一の出世となりました。

義景が正室に管領であった細川晴元の娘を迎えたことにより、幕府との関係はより親密なものとなり、衰退する一途にあった幕府にとっても、朝倉家の財力と力は大きな後ろ盾になっていったのです。

朝倉義景と織田信長について

のちの15代将軍、足利義昭が細川藤孝らに連れられて朝倉家を頼った際、神輿をかついて京に上り、三好三人衆らを蹴散らして足利義昭を将軍に附ければ、朝倉家の行く末も、日本のそれからも変わっていた可能性があります。

財力も力もあった朝倉義景は、越後の平和と安定が一番の人で、余計なことしなくない…まさにユースケ・サンタマリア演じる朝倉義景だったのかもしれません。

ただ、若いころは、近隣とボチボチとした戦も経験しています。

加賀一向一揆とは、因縁的な長い攻防があり、それを無視することができなかったためです。

義昭自身も、最初は朝倉家を頼って京に返り咲くつもりだったようですが、一向に腰を上げない朝倉義景を見限り、織田信長を頼る結果となりました
織田は、足利義昭を擁して京に上り、その後ろ盾となることで覇権争いの先頭に立った形になります。

織田は朝倉に対し、危機感を持っていたことは否めません。

義昭の名で、再三、京への挨拶に来るよう要求しています。

一方、朝倉義景の立場からみたら、織田の軍門に下る形になることに抵抗があったのでしょう。

そして、自分が京に向かうことで、越前が手薄になることを恐れたのかもしれません。

15代将軍・足利義昭の命を無視したということで、信長は朝倉征伐の口実を得ます。

金ヶ崎の戦いでは、あと一歩のところまで織田軍を追い込みましたが、逃げる織田軍の殿(しんがり)を務めた秀吉・光秀軍に阻まれました。

姉川の戦いでは、朝倉と浅井軍に対し、織田と徳川軍による攻防となりました。

朝倉・浅井軍は、大きな痛手を受けたとありますが、3か月後には朝倉軍が三度の出兵をしていることを考えると、引き分けに近かった可能性があります。

三度目の出兵は、織田の留守を狙ったものでした。

信長は、三好三人衆や石山本願寺を征伐するため、遠征していたのです。

朝倉・浅井軍を迎え撃った織田信長の弟・信治や、重臣・森可成らが死んでいます。

急遽戻った織田軍ですが、それを察知した朝倉軍は比叡山に立てこもり、織田軍と対峙することになりました。

お互い痛み分けの戦となり、将軍・足利義昭が調停に動きます。

結果、勅命による和睦という形をとって、1570年11月、両者とも和解しています。

こうした戦の最中、徳川の領地に攻め込む西上作戦を展開していた武田信玄から協力を求められたりもしています。

しかし、疲労を理由にこれを断り、越前に帰ってしまういう顛末もあり、信玄から辛辣な手紙を送られているらしいです。

1571年になると、織田は朝倉家に味方した比叡山に焼き討ちをかけています。

このころになると、朝倉義景は、徐々にやる気をなくしてしまったように感じます。

度重なる出兵で心身も、財政も疲弊していたのかもしれません。

信長は、秀吉に命じて越前に通じる交通を遮断させたり、あちこちに砦を築くなど、包囲網をつくっていきました。

朝倉義景の最後

もう一手にかける朝倉義景に対し、家臣たちの信頼は徐々に希薄なものになっていったようです。

織田との戦のため、出陣する際なども、有力武将らが「疲労」を理由に、出陣を断っているなどが史実に残っています。

またいざ出陣しても、有力武将が織田に寝返るなど、立ち直れないところまで追い詰められました。

最後の一乗谷城の戦いで敗退し、城に戻り再布陣をしようとしても、すでに兵が命令を聞かず逃げてしまっていたということです。

その様子に、いったんは自刃しようとした義景ですが、ただ一人そばにいた景鏡の勧めに従って一乗谷を放棄し、東雲寺に逃れました。

そしてさらに賢松寺に落ち延びています。

最後の味方と思われた朝倉景鏡でしたが、実は彼も織田に寝返っていたのです。

朝倉義景が潜んでいた賢松寺を織田軍に知らされ、織田軍は200騎でここを襲撃します。

やむなく義景は自刃を遂げました。享年41歳でした。

朝倉義景の墓所は、こちらを参考にしてください。



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