家康の母・於大の方の実の母であり、徳川家康の祖母です。
今川の人質となった幼い竹千代を、たった一人の身内として、支え育てた人物です。
では、源応尼(華陽院)(げんろうに・けよういん)について、紹介しましょう。
悲運ともいえる源応尼(華陽院)の生涯
源応尼(華陽院)は、何度も政略結婚という目的で、あちこちに嫁いではいますが、夫となった人物は誰も長生きはしませんでした。
松平清康に嫁いだときは、於富の方と呼ばれており、実の娘である於大の方の方と通じるものがあります。
竹千代は、夫・松平清康と先妻の間にうまれた松平広忠と、娘である於大の方の間に生まれた男の子という、当時ならではの複雑な血筋です。
夫・松平清康の死後、三河の諸豪族に次々と嫁いだことは記録に残っています。
竹千代が今川の人質になる際、今川義元に竹千代の元服までと頼み込んで、竹千代と一緒に今川に入っています。
まだ8歳だった竹千代は、大変病弱だったと伝わっており、祖母・源応尼も、母・於大の方も、心配だったにちがいありません。
昔の女性たちは、政略結婚という名のもとに、離婚と結婚を繰り返し、自分がないままに過ごしていたのでしょうか。
しかしそんな中でも、晩年を孫・竹千代のために過ごせたのは、幸せだったのかもしれません。
桶狭間の戦いのころ亡くなっており、戦場に出向いていた家康(元康)は、祖母の死に目にもあえなかったようです。
墓所は、静岡市葵区鷹匠二丁目24-18の玉桂山華陽院(浄土宗)にあります。
寺の名は、華陽院殿玉桂慈仙大禅尼という法名に合わせて、50年法要の際に、家康が改名したとのことです。
竹千代も、当時智源院と呼ばれたこの寺の住職に、学問を学んでいたようです。
また今川の軍師・太原雪斎や、祖母の源応尼からも学問を授かっており、その後の家康を作ったとも称されています。
また、家康は側室との間に出来た娘〔市姫〕は、慶長15年(1610)2月12日に7歳で亡くなると、祖母の葬られたこの寺に市姫を葬りました。
こんなところにも、祖母・源応尼と家康の、温かい繋がりがみえてくるようです。
源応尼(華陽院)の肖像画が残されています。
三河一の美女という呼び声が高かったばかりではなく、大変聡明な女性でもあったと伝わっています。
源応尼(華陽院)を演じる真野響子さんのコメント
「この時代の武家の女性のご多分に漏れず、源応尼も政略結婚の犠牲となり、幾度か意に添わぬ結婚をさせられていました。同じ境遇をたどって3歳の息子(竹千代)と生き別れた娘の於大に代わり、人質時代の家康を支えて過ごせた最晩年は、ある意味では幸せだったと思います。
役作りは、出番の多少にかかわらず作業は同じで、書かれていない分、自分で埋めていくのは大変。「ちゅらさん」以来久しぶりの堺さんと心の通う芝居ができ、うれしかったです。」
https://www.nhk.or.jp/kirin/cast/38.html から引用
真野響子さんは、1952年生まれの68歳。
相変わらず美しい真野響子さんですから、源応尼(華陽院)を演じるには最適な女優さんだと思います。
所作がとても美しく、気品が漂う真野響子さんの演技を、たくさん拝見したいところですが、「麒麟がくる」では出番が少なくて残念です。
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