2020年NHK大河ドラマ「麒麟が来る」明智光秀の丹波攻め

織田軍を率いる権利を有する大将となった明智光秀に、信長からの指令は丹波攻めでした。

なぜ今ここで丹波なのか、簡単に解説します。

まずはいったん武田を破ったことで、当面は東からの脅威が薄らぎました。

今まで全く手つかずだった京都の西と北にある丹波地方の中には、織田に対し追従してこない有力な国衆がいました。

加えて京の西は毛利に通じる道でもあり、毛利討伐のためには抑えておきたい要所でもあったのです。



 

明智光秀の最初の大きな敗北

信長がまず倒したかったのは、丹波の中でも特に勢力が大きかった荻野直正です。

荻野直正は別名「赤井悪右衛門」とも呼ばれ、精鋭部隊である事で知られていました。

直正は当初は織田側の国衆でしたが、義昭の呼びかけに呼応し織田を離反しています。

しかも武田勝頼や石見の吉川元春らと通じて、織田包囲網の一翼を担っていました。

また最有力国衆の直正が織田を離反したことで、追随する国衆が沢山でました。

その元凶を封じこめたいという目的があったようです。

光秀が丹波平定を命じられ最初に取った行動は、丹波衆を自分の味方につけるということです。

これを実行したのが、光秀の甥にあたる斎藤内蔵助利三でした。

丹波の三大要害とされる八上城、黒井城、八木城のうち、最初に攻める城が直正が城主の黒井城です。

一方八上城主の波多野秀治は、この時光秀の元に参じています。

利三が懐柔した丹波衆の力を借りて、入り組んだ地形を持つ丹波地方を見聞した光秀は、黒井城攻めのための城塞を作ります。

城攻めは体力勝負となるため、兵たちの消耗を最小限に抑えるための城塞であり布陣でした。

黒井城からの反撃も弱まり、いよいよ総攻撃と決めた日の前日早朝、光秀が蒼白になる出来事が起きました。

丹波の有力国衆の一人、光秀に味方したと思わせていた波多野の裏切りです。

明智軍の後ろを囲んでいた波多野軍は、黒井城と示し合わせ、明智軍を挟み撃ちにしようとしたのです。

雪深い丹波の冬の早朝、霧が濃く前も見えないような状況だったそうです。

この濃い霧を利用して明智光秀を始めてとした明智軍は、坂本城に命からがら撤退しました。

これまでの戦いは、織田軍の援軍的立場が殆どで、明智軍として戦い負けたのはこれが最初だったということです。

 

光秀倒れる

波多野の裏切りは、後ろに毛利がいたのではないかと推察されます。

波多野が光秀陣営に入ったところから、その作戦は始まっていたと考えられます。

信長も、こうした内情を偵察により推察していたらしく、光秀に対する責はなかったようです。

この時期、織田軍の武将たちは転戦につぐ転戦の毎日を送っていました。

一旦は和睦した石山本願寺も、また信長討伐を掲げて挙兵し、一向一揆の勢いが盛り返してもいました。

戦場から戦場へと走り回り、本願寺との戦いにも参戦した光秀が倒れたのは、5月半ばのことでした。

病名は分かっていませんが、回復するまでに3ヶ月以上の月日を要したという事ですから、重い病気だった事が伺えます。

光秀を支え、こうした病気の時も献身的に介護してきた光秀の妻が、この年の11月に流行り病で突然亡くなりました。

光秀は大変愛妻家だったとして有名な武将で、その逸話も沢山残されています。

妻の突然の死は、光秀にとってもショックだった事と思います。

しかし当時の武将は、涙する時間も喪に服す時間も与えられず、戦が何より優先でした。

明けて天正5年2月、信長の雑賀攻めが始まり光秀も参戦しています。

この後、石山本願寺を包囲していた松永久秀を討伐するため、信貴山城に向かっています。

織田軍の有力武将の一人、柴田勝頼軍3万が上杉謙信に撃破されたことで久秀の迷いが出たといわれています。

柴田勝家と上杉謙信は手取川で合戦を行いましたが、何しろ3万の織田軍に対し上杉軍は1万2千だったといいます。

手取川合戦の様子について、織田軍を揶揄してこんな歌が詠まれています。

「上杉に逢うては織田も手取川、跳ねる謙信逃げるとぶ(信)長」

上杉謙信の神憑り的な強さは、当時の日本全土に鳴り響いていたのも頷けます。

それにしても織田信長という人は、とにかく敵を作る人だったのだと感心するほどです。

自分以外を信じる事ができず、小心者で疑り深い性格、そのため人からも信頼されず本当の絆を結ぶことができないという、独裁者になる以外道がなかったと思えるほどです。



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