2020年NHK大河ドラマ「麒麟が来る」の配役、第三弾が公表されました。
その中で実在の人物だった3人のうち、今回は足利義輝という人を調査。
もしかして、13代などという足利将軍家末期でなければ、将軍としての威光を輝かせた人物かもしれません。
しかも将軍なのに、当時の剣豪・塚原卜伝から免許皆伝を受けた剣豪としても知られていました。
2020年NHK大河ドラマ「麒麟が来る」で足利義輝を演じるのは向井理さん。
以前、大河ドラマ「「江〜姫たちの戦国〜」で江の夫になる弱々しい雰囲気の徳川2代将軍「徳川秀忠」を演じていました。
この凡庸とされた秀忠も、実は違うという見方が最近出てきているのは面白いところです。
足利義輝の一生
足利義輝の幼名は菊童丸。
生まれたのは1536年、父・第12代将軍・足利義晴の嫡男として御台所との間に生まれています。
御台所とは将軍の正室のことで、側室が沢山いた当時としては、珍しいくらいの正当な嫡男ということです。
この頃の足利将軍家はボロボロな状態でした。
原因は応仁の乱。
8代将軍義政の時代の起きた応仁の乱で、将軍家の権威は失墜しお飾り状態になってしまいました。
もちろんその後の将軍たちは、何とかし威光を取戻したくてあがいています。
義輝の父・第12代将軍・足利義晴も同様です。
将軍家の復権を目指して、細川家と対立。
京と近江を行ったり来たりしながら、戦に明け暮れ、京は疲弊し退廃していたそうです。
そんな中、義輝は11歳で元服・将軍宣下。
これについては、朝廷も細川家も異を唱えることはせず承認されました。
元服を機に、名前を足利義藤(よしふじ)としました。
将軍職にはついたものの、細川家や三好家との対立は続きます。
父同様、近江に逃げ込むことも多く、剣はその時に鍛錬したものと言われています。
足利義輝 起死回生
近江で将軍家の後ろ盾となってくれていた六角氏が、将軍家と三好家・細川家との仲裁に入ってくれました。
その結果、首尾よく足利将軍家と敵対する細川・三好両家と和睦ができました。
意気揚々と京に戻った義輝は、将軍の復権を目指して目覚ましく働き始めます。
まずは遅まきながら正室を娶り、朝廷とのパイプを築きます。
あちこちの大名たちの奮戦の調停をしたり、幕臣たちの位を上げたり、自分の名前の一字を大名や側近に与えたり・・・
名前の一字を貰うことを偏諱といいますが、義輝の場合これがすごい人数になります。
2020年NHK大河ドラマ「麒麟が来る」に登場する、「三淵藤英」「細川藤孝」は当然それにあたりますが、島津義久、上杉輝虎(後の謙信)、伊達輝宗(政宗の父)、毛利輝元なども数の内ですから驚きです。
こうした「働き」が、実は殺される原因だったようです。
足利義輝の最後
名前を義輝に改名したのは、1554年従三位に昇叙したおりです。
木偶の棒的な将軍であれば天寿を全うできたかもしれない義輝ですが、そうではなかったことで三好家に狙われることになります。
義輝が京に戻ったとはいえ、三好家の勢力が衰えたわけではないのです。
しかし義輝の復権に対する活躍が目覚ましく、三好家にとっては脅威に映ったに違いありません。
松永久秀の長男・松永久通と三人衆は足利義稙の養子・足利義維(義輝の叔父)と組み、義維の嫡男・義栄(義輝の従兄弟)を新将軍にと朝廷に掛け合いますが、朝廷は承諾しませんでした。
一方で義輝が頼みとする近江六角氏は1563年に領内でおきた観音寺騒動以降、領国の近江を離れられなくなっていたのです。
松久通と三好三人衆は1万人の軍を率いて義輝が住む二条城に来週。
将軍に訴訟があるとして開門させました。
1万の軍勢を率いている相手をなぜ開門し城内に入れたのか、不思議だとは思いますが・・・
義輝は自ら戦ったそうですが、多勢に無勢で殺されてしまいました。
義輝の死については、戦って殺された説、自害説など、色々な資料があり定かではありません。
松永貞徳の『戴恩記』などの御所を囲まれて切腹したというもの。
『常山紀談』の「散々に防ぎ戦ひて終に自害有ける」などの自害したという明確な記述が見られるものもあります。
亡くなったのは義輝30(満29歳)。
辞世の句
「五月雨は 露か涙か 不如帰 我が名をあげよ 雲の上まで」
このホトトギスはよく句に現れますが、激情的ともいえるさえずりに自分の気持ちを託して詠んだものが多いようです。
義輝の死後、1567年には摂津や坂本から集まった8万人もの人が、鉦(かね)や太鼓を鳴らして義輝の死を悼んだとあります。
同じ年の10月には、義輝の奉公人や女房衆に扮した600人余りが風流踊りを行い、三好三人衆へ抵抗したともあります。
義輝は将軍として決して小さな器ではなかったのでしょう。
義輝の供養塔が山口県山口市の俊龍寺にあります。
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