藍香(らんこう)ありて青淵(せいえん)ありとは、どんな意味でしょうか。
2021年NHK大河ドラマ「青天を衝け」の渋沢栄一とは、どんな関係があるのでしょうか。
藍香も青淵も号といわれる別名で、藍香は尾高惇忠のことで、青淵とは渋沢栄一のことです。
栄一の生まれた血洗島村近隣は江戸に近いこともあって、多くの儒学者や武芸者が訪れ江戸からの情報も入りやすい地域でした。
こうしたことから、若い農民たちも文武に励み天下国家を論じあうという気風が育っていくという独特な土壌がありました。
そんな中、幼少期から知識欲が旺盛だった栄一は、6歳から父の手ほどきで学問を始めたのです。
藍香こと尾高惇忠とは
尾高惇忠と渋沢栄一の出会いは、栄一が7歳のときでした。
これは栄一の父の勧めでもあり、栄一とは10歳年上の従兄(いとこ)でもありました。
尾高敦忠は血洗島村の隣村、下手計村に産まれ、父は尾高保孝・母は栄一の父の姉にあたります。
尾高惇忠は、これも若いころから優秀な人材で、17歳のころには近隣にも名が聞こえた学者として尊敬されていました。
また、「論語」「孟子」「四書五経」などを近隣の若者たちに教える塾を営んでおり、栄一も塾生となったのです。
長身で色白・面長な風貌で、一見優男風だった尾高ですが、目が鋭く気が強い性格だったと伝わっています。
いったん学問という領域になると、その理解力や読解力には目を見張るものがあり、教えかたも独特でした。
塾生には書物をいったん通読させ、読み方と大意を説明するだけ。
漠然としたものしか理解できない塾生に、何度も何度も読むことを指示。
読み込めば自ずと理解できるものだという教え方でした。
この勉強法が、栄一はとても気に入ったようです。
栄一は次から次へと本を読み漁りました。
新年の挨拶に行くときも本を手放さず、晴れ着のまま溝に落ちてしまい母親に怒られたという話があるくらいです。
現代でいう歩きスマホと同じ現象を、渋沢栄一は江戸時代末期にやらかしていたようです。
余談ですが、学校の校庭に必ずあった二宮金次郎の銅像が無くなったのも、歩きスマホに通じるものがあったからだとか・・・
時代が変わっても人がやることは大きく変わらないという、例えのようなものですね。
溝に落ちるくらいで済む時代と、命を落としかねない現代という時代背景が大きな差でしょうか。
話を戻します。
尾高惇忠は1841年、父と一緒に水戸城外の千波が原に行きました。
追鳥狩(おいとがり)の見物が目的だったのか、何かのついでだったのかは不明。
追鳥狩とは水戸藩の藩主・徳川斉昭が行った実践的な軍事訓練です。
水戸藩は斉昭号令の元、海防の必要性を唱え、寺院の梵鐘などから大砲を鋳造したり、水戸学を奨励したりしていました。
尾高は追鳥狩の現場で馬上にある斉昭の雄姿に畏敬の念を覚え、それ以降水戸学に傾倒していきます。
水戸学とは、日本古来の学問に儒教を加味した学風です。
江戸時代末期の水戸学は、「天皇を尊崇することによって民心を統一し、それによって幕府の権力強化を図り、外国からの圧力を排除するためには武力行使も辞さない」というものでした。
これが尊王攘夷論に理論的なバックアップを与えた考え方だったとされています。
追鳥狩の12年後、ペリー率いる黒船の来航があり、尊王攘夷思想は一気に全国に広まっていきます。
もちろん早い時期から水戸学に深く共鳴した尾高は、バリバリの尊王攘夷運動家であり、その影響を受けた渋沢栄一も声高に尊王攘夷を叫ぶ青年に育っていきます。
渋沢栄一が尾高惇忠について語った資料があります。
「藍香は元来学才もあった。然し人情味の大変豊かな人であった。あらゆることに指導を受け、或いは行動を共にしてきたが、未だかつて藍香に叱られた覚えはない。そして諄々として訓へ導いてくれる。それに藍香は中々活発であった、小さいころは戦遊びもよくやった。撃剣も相当やれるし相撲もとった。ただ事業をやることだけは下手だった(渋沢栄一伝記資料 別刊第五より)」
栄一が尾高を慕っていた様子が手に取るように分かります。
長兄として生まれた栄一にとって10歳上の兄のような存在だったのでしょう。
影響を受けるなという方が無理だという間柄だったようです。
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