2021年NHK大河ドラマ「青天を衝け」 慶喜はどこまでも尊王だった

鳥羽伏見の戦いから、函館五稜郭での戦いまでを「戊辰戦争」といいます。

日本が新しい日本に生まれ変わるために、必要不可欠だったといわれますが、果たしてそうでしょうか。

近代国家に変貌を遂げる必要があったのは確かでしょうが、それが一部の人間の陰謀と、本物かどうか怪しい錦の御旗が勝利した戦争でした。

徳川慶喜はといえば、根っからの尊王主義でしたから、天皇に対し戦いを挑むことなど考える余地もなく、自ら蟄居・謹慎という恭順の姿勢を貫いたのです。

鳥羽伏見の戦いからの一連を、簡単に時系列で説明します。

 



 

勝てるはずのない幕府

旧態然としたままの幕府側の軍備。

200年も続いた平安の中で、軍を指揮する能力のある武将がいなかった幕府。

引き換え、最新の軍備を持ち、西郷隆盛・大村益次郎・山県有朋といった、指揮官を有する佐幕派。

そのうえ、「錦の御旗」を戦場に掲げることで、一気に官軍となった薩長。

状況を知った幕府側にいた藩が、次々寝返っていきます。

敗戦が決定的になった幕府軍と、それを知った徳川慶喜は、松平容保ら幕閣と軍艦・開陽丸で江戸にもどりました。

総大将がいなくなった幕府軍は、一気に腰砕けとなり大混乱に陥りました。

しかし徳川慶喜は、生まれた時から尊王の教育を受けてきた人です。

京でも、天皇を補佐し守ることに力を尽くしてきました。

松平容保らも、同様です。

官軍の持つ錦の御旗に対し、弓を射ることなどできません。

事態の収拾を勝海舟らに命じ、自分は自ら、徳川家の菩提寺でもある上野・寛永寺に蟄居・謹慎をしたのです。

勝海舟と西郷隆盛の会合により、江戸城の無血開城と、江戸焼き討ちが中止になったことは、誰もが知る事実です。

彰義隊の筆頭は、あの喜作だった

慶喜らが軍艦で江戸に帰ってしまったあと、残された幕府の兵士たちはどうしたのでしょうか。

大阪湾には、幕府の軍艦は一隻もなかったそうです。

ここで再び登場したのが、喜作です。

覚えていますか?

渋沢栄一と一緒に、やむなく慶喜の家来となった、栄一の竹馬の友です。

このとき喜作は慶喜の「奥祐筆」という役職を担っていました。

奥祐筆とは、本来であれば、江戸城本丸が仕事場で、幕府の機密文書の管理や作成なども行う役職でした。

この喜作が紀州藩と交渉し、軍艦を借り受けて指揮・監督にあたり、幕府の兵たちを江戸に連れて帰ったのです。

さぞ無念だったことでしょう。

若いころに掲げた尊王攘夷はなりませんでしたが、徳川慶喜を通じて天皇に忠誠を誓い仕えていた自分たちが、賊軍の扱いを受けているのです。

そこで結成したのが「彰義隊」です。

目的は、主君・慶喜公の汚名をそそぎ、公の無実と尊王の意思を明らかにし、名誉を回復させること」でした。

彰義隊の命名の意味は、「大義を天下に彰らかにする」という目的から名付けられたものです。

勝てるとは思っていなかった喜作にとって、死ぬための大義が重要だったともいえます。

勝海舟は、夜盗から江戸の民を守るために見回り役に、彰義隊を抜擢。

官軍に挙兵と見破られないための、苦肉の策ともいえましたが、それなりに江戸の住民たちに認められ、頼られる存在になっていきます。

そのため彰義隊の人数が膨れ上がり、多い時は3000人を超えることもあったようです。

人数が多くなると、当初の目的がぼやけてしまうのは、よくある話です。

最初の目的である「慶喜公の名誉挽回」を唱える者は少数派となり、武力を見せつけたい者たちが優勢になってきました。

武力闘争を強固にする彰義隊の一部は、喜作らを襲うまでにエスカレートし、喜作は見捨てるしかありませんでした。

一方、慶喜は無血開城を見届けたあと、水戸に移っています。

しかし武力闘争一辺倒で上野に残った彰義隊は、その後官軍と衝突し、上野戦争をもって壊滅しました。

 



 

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