平岡が亡くなって茫然自失となっていた渋沢栄一と喜作ですが、悲しみに耽る間もなく、京では禁門の変が起こります。
その知らせを受けた栄一と喜作は、集めた新兵たちを引き連れて大急ぎで京にもどりました。
翌年1月、渋沢栄一と喜作は小十人並という位になります。
この位置は先に書いた「御目見以上」になるため、二人は慶喜に拝謁できる身分まで上がってきたのです。
禁門の変後、水戸では天狗党が暗躍します。
天狗党結成には禁門の変直前の京を舞台にした人間関係に端を発し、慶喜や栄一たちも巻き込んで壊滅していきます。
当時の栄一や慶喜たちの時代背景に欠かせない天狗党について、結成から滅亡までを紹介します♪
天狗党とは
天狗党発祥となった水戸藩の当時の情勢ですが、一枚岩とは程遠い状況にありました。
元々派閥争いが絶えない藩でしたが、江戸末期ともなると「改革派」「保守派」に分かれ、改革派は「激派」と「鎮派」に分かれていました。
改革派の中でも激派はバリバリ武闘派の尊王攘夷思想家をさします。
さてこうした背景の中、将軍家茂が229年ぶりに京に上洛しました。
これに先立ち、慶喜や徳川慶篤らが上京。
この徳川慶篤に供をして上京したのが藤田小四郎でした。
藤田小四郎は尊王攘夷を唱えた藤田東湖の息子であり、父が説いた説が京で花を咲かせ、京が尊王攘夷一色になっている様を目の前にして奮い立ちます。
久坂玄瑞や桂小五郎らとの親交を深め、攘夷を推し進めようと誓いあったのです。
しかも天皇が上京した家茂に伝えたのが「攘夷せよ」というもの。
しかし幕府は動きません。攘夷は無理だと分かっていたからです。
直後、京から攘夷派の長州藩などが一掃される政変がおきました。
藤田は急ぎ水戸に戻り、幕府に攘夷を促すために筑波山で天狗党を挙兵したのです。
天狗党と慶喜・栄一
幕府は関東諸藩に天狗党討伐令を発布しました。
同じ水戸藩内でも保守派の面々は、天狗党討伐軍を編成します。
一進一退を続ける攻防の中、天狗党は上洛を試みます。
天狗党の本来の目的は尊王攘夷にあり、決して朝廷に背く賊軍ではないことを慶喜から朝廷に伝えて貰うことが目的だったようです。
しかし身内の水戸藩とはいえ、幕府が賊軍とした天狗党を京に入れるわけにはいきません。
慶喜自ら天狗党討伐軍を率いて大津に向かいました。
その時栄一は討伐軍の中に、喜作は斥候として天狗党の動きを探る役目をになっていました。
天狗党の惨敗と水戸藩の衰退
中山道をすすむ天狗党は次々に諸藩に勝利し意気揚々京に進みます。
そこで最初の大敗を記す事になりました。
待ち構えていたのは彦根藩と大垣藩の大群です。
中でも彦根藩は先の桜田門外の変で藩主の井伊直弼を殺された恨みを晴らすべく、敵意剥きだして襲ってきました。
天狗党は負傷した兵士を斬首し、雪深い北国街道を決死の思いで進むことになったのです。
ようやく越前に辿り着いたとき、天狗党を迎え撃つべく対峙していた加賀藩から、慶喜の天狗党討伐軍が出たという話が伝わったのです。
頼みの綱だと信じてここまでやってきた天狗党は愕然としたことでしょう。
戦意を喪失し加賀藩に投降しました。
生き残っていた天狗党のうち、352人の首をはね、他は流罪や追放の処分を受け、ここに天狗党は壊滅しました。
水戸藩の保守派が天狗党討伐軍として決起した軍を、諸生軍といいます。
天狗党に代わり藩の実権を握った途端、天狗党に加わった者の家族を殺害。
時代が江戸から明治に替わり明治政府が樹立されるとすぐ、政府から諸生軍追討令が発令されます。
改革派や天狗党の生き残りも続々と水戸に戻り、諸生軍討伐に加わりました。
家族を殺された彼らにとって、公に許された復讐です。
こうして水戸藩は有能な藩士を全て失うこととなります。
本来、尊王攘夷思想は水戸藩から生まれたものでしたが、明治政府にはただの一人も水戸藩の人間がいなかったのは、こうした理由があるからです。
今回は渋沢栄一や徳川慶喜の時代背景を知ってほしくて天狗党を紹介しました。
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