明智光秀が落とした城 丹波平定にスポットをあててみました part1

2020年NHK大河ドラマ「麒麟が来る」の後半になるだろう丹波平定。

苦戦はしたものの織田軍での光秀の地位を堅個なものにした、重要なポイントでした。

この丹波平定の際に落とした城を落城した順に紹介しましょう♪



園部城1578年7月落城
黒井城1578年8月落城
八木城落城1579年月は不明
—↓part2に続く——
八上城落城1579年6月
宇津城落城1579年7月
横山城落城1579年8月
有岡城落城1579年9月

それぞれの城の概要とアクセスについて解説します。

明智光秀が落とした園部城

園部城は日本の城郭史で最後の建築物として知られています。

————————————–引用—
城郭(じょうかく)とは、城のこと。または城と曲輪の総称。本来、城は内城、郭は外城を指した。
————————————–https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9F%8E%E9%83%AD

城壁に囲まれた山城として、日本で最後の建物であると城郭史が編纂しています。

小出吉親が築いた城は徳川幕府の制度上では陣屋という扱いになったため、園部陣屋として呼ばれていました。

幕末になり京都の治安を守るため改修され、やっと園部城と呼ばれるようになったのです。

現在は京都府立園部高等学校の敷地となり、巽櫓、城門の櫓門(高校の校門)、番所、太鼓櫓(八木町の安楽寺に移築)など一部の建物が現存しています。

園部城へのアクセス

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●最寄り駅
JR山陰本線園部駅から徒歩20分
JR山陰本線園部駅から、ぐるりんバス「20系統・30系統」に乗車、「図書館前」下車、すぐ
JR山陰本線園部駅から、京阪京都交通バス「40系統 八田線」「44系統 園篠線」に乗車して「園部高校前」下車、すぐ

●車の場合
京都縦貫自動車道園部ICから京都府道19号を経て国道9号へ
京都縦貫自動車道園部ICから約5分
京都縦貫自動車道八木西ICから約5分
駐車場は無料の園部公園駐車場有り

明智光秀が落とした黒井城

黒井城(くろいじょう)は、丹波の赤鬼の異名を持つ赤井直正の居城。

別名を保月城(ほげつじょう)、保築城(ほづきじょう)ともいいます。

黒井城の南麓に下館を設けて平時にはそこで政務を行いました。

野面積みの高い石垣と、白壁などが当時の面影を残しています。

明智光秀が黒井城を落とした後、光秀の重臣である斎藤利三を城主として統治させてます。

徳川家光の乳母として知られる「春日局(かすがのつぼね)」は斎藤利三の子としてこの地で生まれました。

現在この場所は興禅寺というお寺になっています。

「お福さま」と呼ばれ、3歳までここで過ごしいたそうで、幼少時代を過ごした名残である「お福の腰掛け石」や「お福の産湯井戸」が残っています。

光秀は一度は黒井城から敗走を余儀なくされましたが、二度目は赤井直正の死去に伴い戦意を喪失させた黒井城を攻め落とす事に成功しています。

黒井城へのアクセス

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●最寄り駅
JR福知山線・黒井駅から登山口まで徒歩約10分

●車の場合
舞鶴若狭自動車道春日ICから10分
10台ほどが停められる無料駐車場有り



明智光秀が落とした八木城

木城(やぎじょう)は、丹波国三大城郭のひとつ。

他の二つは黒井城、八上城を指しています。

八木城はキリシタン武将・内藤如安(ないとうジョアン)ゆかりの城としても知られています。

ちなみに内藤如安は洗礼名、本名は五郎丸。

キリスト教の迫害を受けた際八木城も厳しい弾圧を受け、後難を避けるために史料の多くが故意に書き換えられたり、記録が抹殺されてしまったようです。

史実が不明瞭なことから「幻の八木城」と呼ばれ、現在も歴史研究家の調査が続いています。

八木城は八木駅の南東にそびえる標高330mの城山に築かれており、遊歩道も整備されています。

八木城へのアクセス

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●最寄り駅
R嵯峨野線・八木駅から徒歩15分(ただし麓の春日神社から山頂まではさらに35分)

●車の場合
京都縦貫自動車道・八木東ICから15分
駐車場は無し ただし登山口近くに駐車可能な場所有り

登山道は八木小学校の南西にある春日神社の西側、京都縦貫道のガード下を潜ると登山口があります。



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