横浜港を出発した際、見送りに来ていた幕府高官たちは、すでにいない。幕府さえもないのだから。
その知らせが届き、進退を決断しなければならないばかりではなく、金策という仕事も、渋沢栄一にかかってきました。
その時の徳川昭武や渋沢栄一たちの動きを、かいつまんで紹介します。
渋沢栄一・昇進するも疲労困憊の日々
徳川昭武らがイギリスからパリに戻ったのが、11月下旬でした。
この少し前の10月には、すでに兄である将軍・徳川慶喜は、大政奉還を行っていました。
11月下旬にパリに戻った昭武は、ここからやっと「留学」として勉学に励み始めたのです。
まずはフランス語・絵画・歴史・乗馬などでしたが、予定されていた本命の帝王学は、本国の幕府転覆を受けて学ぶことができなかったようです。
そうはいっても、即刻帰国するわけにはいきませんでした。
慶喜の弟である昭武が帰国した場合、殺されるか、切腹を言い渡されるか、情勢がまったくつかめないだけに、戦々恐々とした思いでいました。
結果、日本国内の情勢が落ち着くまでは、帰国をせずフランスにとどまることを決めました。
もちろん、それ以外の人員は、順次帰国の途につき、最終的に残ったのは渋沢栄一と本人・徳川昭武を含めて7人でした。
役回りを小分けしてそれぞれが受け持っていたものが、7人ではそれができません。
渋沢栄一は昭武の御用取扱並びに外国奉行支配調約に昇格。
昇進した渋沢栄一は、徳川昭武の身辺についての全責任もおわなければいけない立場です。
もちろん、今まで行っていた会計の役はそのままです。
幕府からの送金がいつ止まるか分からないまま、最小人数には絞り込んだものの、これらの滞在費といずれ必要になる帰国費を、渋沢栄一がねん出しなければなりませんでした。
「絶対無理!」いまならそう言って、投げ出してしまいたくなるレベルですねぇ…
実はこの大政奉還については、パリの新聞が11月初旬には伝えていたそうです。
しかし実際のことが思うように分からず、パリにいた昭武や渋沢栄一たちは、やきもきしていたことでしょう。
日本から正式な通達が届いたのが、翌年の1月2日のことでした。
渋沢栄一が、日本にいたときから感じていた幕府の弱体化。
その幕府が転覆したことは、渋沢栄一にとっては、すでに予見できていたとしても不思議ではありません。
ほかの武士たちが驚き嘆く中、渋沢栄一は落ち着いていたということです。
本国・日本からの手紙
欧米列強への表敬訪問やパリでの日々を一緒に過ごし、先に帰国をした杉浦譲から、日本の様子が手紙で渋沢栄一のもとに届きました。
出国の時の様子は見る影もなく、日本の様相が様変わりしてしまったこと。
大政奉還で幕府内が大変混乱しており、仕事が遅々として進まない状況であること。
幕府の方針が日々変わり、人情は紙より薄く、仕えることに疲れる有様なので、帰農したいが土地がないといった愚痴のような
ことまで、書き送ってきたようです。
しかしそんなリアルな日本の状況を知ることは、渋沢栄一の判断にも大いに役にたったようです。
今帰っても意味がない。
その判断が、出来るだけパリに留まり、徳川昭武の勉学の時間を取るという方向を後押ししたのかもしれません。
こうして、その年の5月15日に明治政府からの「帰国命令書」が届くまで、昭武の留学を支え続けたのです。
「帰国命令書」が届いたからといって、すぐに帰国の途についたわけではありませんでした。
その時の様子は、この後ページを改めてご紹介したいと思います。
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