2021年NHK大河ドラマ青天を衝けの主人公、渋沢栄一がお供をする徳川昭武らは、まだフランスに留まっていました。
しかし5月15日、エラールが明治政府からの帰国命令をもって来たのです。
さて、渋沢栄一たちは、徳川昭武を伴って日本に帰っても安全なのか…徳川が転覆した今、帰国は殺されることを意味するのではないか…頭をかかえて悩んだことでしょう。
今回は渋沢栄一たちが、日本へ戻るまでの経緯を紹介します。
渋沢栄一帰国の途へ…その前に
前述した帰国命令に対し不安はあるものの、その決定を下すのは、ほかならぬ徳川昭武です。
そこで、日本の国内情勢を詳細に説明し、昭武の意思を聞いてみました。
昭武は、兄慶喜が3月に水戸に移ったことを知り、徳川に対する危険は薄いと判断したようです。
逆にここで明治政府に逆らわない方が良いと、彼なりの判断があったのかもしれません。
新政府の命令に従うという決断をしました。
しかし渋沢栄一は、国内の情勢が安定しているとはいいがたく、また事情が変わる可能性があると説き、しばらくは様子を見るようにと説得します。
昭武は、明治政府の命令に恭順の意を示し、帰国する旨を伝える書簡を送っていますが、いつ戻るといった詳細には触れていません。
それどころか、フランス国内旅行に出発しています。
この国内旅行を勧めたヴィレットと、菊池・渋沢が同行し、ノルマンディーやブルターニュ―を訪れました。
「楽しい旅だった」と、昭武の日記にはフランス語で書かれています。
いよいよ帰国
パリに戻ると水戸藩主・徳川慶篤が死去したとの知らせが届いていました。
徳川慶篤は、昭武の長兄にあたります。
次いで届いた手紙には、次期水戸藩主は昭武であると書かれており、フランス留学でも供をし先に帰国した井坂と服部が、迎えにいくとありました。
もう帰国するしかありません。
そうなるととにかく忙しくなるのが、会計を任されている渋沢栄一です。
銀行口座の解約・家賃の清算・家具の処分・帰国の手続き、果ては土産物の準備までしなければなりません。
そしていよいよフランス皇帝ナポレオン三世に別れの挨拶を告げ、9月4日、マルセイユから日本に向けて出港しました。
マルセイユに着いたのが1年半前の2月29日。
この1年半の間に渋沢栄一が学んだ近代国家のシステムは、その後の人生に多大な影響を及ぼすことになります。
渋沢栄一 帰路での情報収集にも余念なく!
帰路はフランスに向かった際の逆の経路をたどります。
日本に近づくにつれ、渋沢栄一は出来得る限り、国内の情勢を掴もうとしました。
香港で聞いたのは、会津戊辰戦争により鶴ヶ城が落城したことや、榎本武揚らが幕府の海軍を率いて函館に向かったことを知ります。
すると会津藩士・長野慶次郎と、会津藩軍事顧問・スネールが、渋沢栄一に会いにきました。
「徳川昭武が陣頭に立てば、生き残った幕府軍にも勢いがつく。民部公使を幕府軍の拠点・函館にお連れしてほしい」というのが、彼らの申し出でした。
それに対し渋沢栄一は、「民部公使の帰還は、明治政府と水戸藩からの命令によるものである。危険な函館にお連れすることはできない」と、きっぱり断りました。
薩摩藩の沿岸を航行中の昭武の日記に、「正午頃、あと薩摩めの岸に沿って進む」とあります。
パリ万博で薩摩藩によってさんざん苦汁を飲まされたこと、徳川幕府の転覆についても主導権をとった藩の一つであることに対する、静かな怒りだったと推察します。
渋沢栄一と徳川昭武が横浜港に入港したのは、1868年11月3日の夕方でした。
年号は既に明治に変わり、洋服を身に着け、ちょんまげを切った人々が歩く、新しい時代になっていました。
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