明智光秀ゆかりの地、滋賀県といえば坂本城と比叡山は外せません。
そして本能寺の変後、これで光秀は3日天下となったのかもしれない城もあります。
今回は明知光秀ゆかりの地、滋賀県のメインともいえる場所をご紹介します♪
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明智光秀ゆかりの地 坂本城
残念なことに坂本城は現存してはいません。
近年行われている発掘調査や、当時書き残された人々の日記などで全貌が分かってきています。
本丸は琵琶湖に突き出した出島のような形に縄張り(設計)され、安土城より先に天守があったと推測されます。
中堀で囲まれた二の丸、外堀で囲った三の丸など、水城の様相を呈していました。
この堀は直接琵琶湖に繋がっているため、水運の要であったとも考えられます。
この地域には石積みのプロフェッショナル集団だった穴太衆と呼ばれる職人たちがおり、坂本城の石積みは彼らの手によるものです。
ちなみにこの穴太衆は、古墳時代から堅個な石垣を積むとしてその名を知られていました。
坂本城は1571年に造営工事が着工しています。
浅井・朝倉勢の南下に備えた防衛のため、京都の守護のため、琵琶湖畔の広大で肥沃な土地を利用した城下町の建設など、当時としては先進的な都市計画を持って造られたと考えられます。
坂本城跡は現在碑が立っているだけというものですが、そこから琵琶湖を眺めて当時に思いを馳せてみるのも良いでしょう。
明智光秀ゆかりの地 比叡山延暦寺
余りにも有名な比叡山焼き討ち。
明智光秀は率先して指揮を執り、勇猛果敢に戦ったといわれます。
延暦寺焼き討ちは、さすがの信長も思い余ってのことだっただろうと思います。
延暦寺の僧兵と4千人を越えていたといわれ、その軍事力は信長にとっても脅威でした。
何しろ院政で有名な強硬派の白河法皇ですら「賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」と言っているくらいです。
年々武力が強まる延暦寺僧兵たちは、自分たちの主張を通すため、神輿を奉じて権力者に訴えるということを続けており、神輿=神だった当時は、誰も逆らうことができなくなっていたのです。
信長が浅井・朝倉と対立すると、延暦寺は彼らを匿い信長に対抗する意思をはっきり示しました。

1571年、信長派「天下統一」の障害になると考え、延暦寺に武装解除するよう再三通達をし、これを断固拒否されたのを受けて9月12日、延暦寺を取り囲み焼き討ちにいたったというのが流れです。
神や仏、それに仕える僧にまで焼き討ちというのは、天下万民が信長を恐れたのは想像できます。
しかも今の世まで語り継がれる残虐行為。
しかし神や仏を我物顔に使ってやりたい放題というのも如何なものかと・・・。
信長は3万の兵で包囲し比叡山に焼き討ちをかけました。
その武将の一人が明智光秀であり、その戦後処理は光秀に一任されています。
焼き討ちから15年後、僧兵を置かないことを条件に、復興が始まりました。
明智光秀ゆかりの地 瀬田城と瀬田橋
「急がば回れ!」の語源になったのが瀬田川に架かる瀬田橋です。
この架橋を任されていたのが瀬田城主、山岡景隆でした。
本能寺の変の後、安土城に入るため行軍していた明智軍を阻むため、瀬田橋を焼きとしたのです。
結果明智軍はいったん引かざるを得なくなり、光秀は天下人への野望も阻まれたのです。
この瀬田橋を掛けなおす架け直すのに3日もかかっており、その間は坂本城に待機して、各地の武将たちに味方に付くようせっせと手紙をしたためていました。
6月5日、やっと安土城に入ったときには、城の中はもぬけの殻、無人だったということです。
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