NHK大河ドラマ「麒麟がくる」で、間宮祥太郎さんが演じる明智左馬之助(明智秀満)ですが、実は出生は不明です。
ドラマでは、明智光秀の叔父・光安の嫡男・左馬之助として描かれていますが、違う可能性も捨てきれません。
数種類の説がある左馬之助ですが、山崎の戦い負けた明智の居城、坂本城にいて、妻子を含め明智一族を殺し、自分も自害したと伝わっています。
本当のところはこれもわかりません。
つい最近、明智秀満(左馬之助)の史実が記された資料が見つかています。
それらも合わせて、明智秀満の生涯を調べてみました。
明智秀満の最近見つかった資料とは
明智秀満は、山崎の合戦のあと、愛馬にまたがったまま琵琶湖を渡ったという「湖水渡りの伝説」が知られていました。
その元になった話ではないかという資料が、大津市石山寺から発見されました。
そこには、秀満の名の一つである「弥平治」という記述が見て取れます。
光秀が、本能寺の変のあと、軍勢を率いて安土城に向かったおり、信長方の景隆が瀬田橋を焼いて防戦したと信長公記にあります。
それに対する光秀側の記述が、今回発見されたものではということです。
弥平治は船を使って琵琶湖を渡ろうとしたが、船戦となり、琵琶湖を渡ることができなかったという様子がかかれています。
今後研究が進むものと思いますが、この時期にこうした資料が見つかったということに驚きます。
もしかして麒麟の仕業かもしれませんね^^:
明智秀満という人物について
明智秀満については、名前だけでも沢山ありすぎて、実際使われた名なのかどうかさせ判明していません。
この時代の資料には秀満で登場することが多く、三宅弥平治、明智弥平治、明智光春、明智満春、左馬之助、光俊、光遠と名乗ったなど、様々です。
名前から考えると、出生も明智説、三宅説、遠山説などがあり、未だに判断できないのが現状です。
いっそのこと、DNA鑑定でもしてほしいところですが、これも歴史のロマンでしょうか。
秀満の妻についても、光秀も長女という説はありますが、これまた不確かなものとされています。
こうした不確かなものを踏まえたうえで、俗説として伝わっている明智秀満の後半生を紹介します。
荒木村重の嫡男・村次に嫁いでいた光秀の長女は、村重が信長に反旗を翻したことで離縁。
その後、秀満と再婚し、それを機に秀満は明智姓を名乗っていたようです。
天正9年10月6日、丹波天寧寺に出した諸色免許状には明智弥平次秀満という署名をしたものが残っています。
一方光秀の年貢請取状には、秀満と読める文字が押印されていて現存しています。
明智光秀の重臣として活躍した秀光は、本能寺の変では、先鋒として戦場に立っていました。
本能寺の変のあとは、安土城に入り、そこを警備していましたが、山崎の合戦で光秀らが敗れたのを知ると、光秀の居城である坂本城に戻ります。
坂本城は、堀秀政らの軍に包囲され、しばらくは秀満も防戦していたようです。
しかし勝ち目のない戦を覚悟した秀満は、坂本城にあった名物の刀や脇差、黒蹟などの目録を作り、堀秀政の弟・堀直政に渡しています。
直政からは、目録通りの品を受け取ったという受領書が残されています。
しかし光秀が秘蔵していた郷義弘が目録になかったため、それはどうしたのかととの問い合わせに、「この脇差は光秀秘蔵のものであるから、死出の山で光秀に渡すため秀満自ら腰に差す」と答えたと伝わっています。
まさに死を覚悟したうえでの言葉であり、どこまでも光秀を信頼する重臣らしい言葉です。
「麒麟がくる」の中で、左馬之助がどんな風に成長していくのか、楽しみでね。
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