2020年NHK大河「麒麟が来る」の最終回は、光秀の死以外には考えられません。
ただ、明智光秀という武将は人生の前半生も不明瞭ですが、彼の死も不可解な事が多いといわれます。
まず本当にこの時光秀は死んだのか!?という謎が大きく立ちはだかります。
それらの謎はそのままに後日紐解くとして、出来るだけ史実に沿った形で本能寺の後の光秀公を紹介します♪
光秀の3日天下
実際は勿論3日ではありません。
安土城に入ろうとした際落とされた橋が修復され、通行可能になったのが5日目です。
秀吉の本拠地長浜城も落とし、斎藤利三を長浜城に入れています。
朝廷は光秀に対し「京都の治安と経営を任せる」と伝えています。
しかし信長親子の首が無い事が、この後の災いを呼びます。
朋友であった細川藤孝親子さえ、織田の死を信じられず光秀の元にやってきませんでした。
細川だけではなく、近隣の武将や大名の誰一人として明智の家臣として馳せ参じる者はいなかったそうです。
一方、中国大返しを始めた秀吉は、「信長公は光秀の襲撃を逃れて無事」とし、織田軍に参戦して逆賊光秀を討つべし!と呼びかけながら京への道を急いだのです。
秀吉の大返しを知った光秀は、京を戦場にする事を避け、山崎の地を戦場に選びました。
ここまで冷静で用意周到だった光秀が、本能寺の変前後はまるで別人のようです。
信長に気づかれる事を恐れて、根回しができなかったのかもしれません。
しかし織田を倒した後は、一気に征夷大将軍の地位に上る必要があったのは当然です。
安土城に入ろうと5日も無駄にする必要があったのでしょうか?
朝廷と所縁の深い光秀ですから、違う方法があったはずだと思えてなりません。
朝廷からのお墨付きを貰えば、全ての武将が自分の配下に入るのが当然だと思ったのでしょうか。
織田の有力武将たちが遠方にいるため安全だと油断したのでしょうか。
ここまで明智光秀を調べてきた筆者は、こうしたボタンの掛け違い的な失態が残念でなりません。
☆『本能寺の変はなぜ起きた!?もう一つの歴史が見せる真実とは』の記事はこちらへ ☟☟
山崎の戦い
明智軍約1万人の兵に対し、秀吉軍は3万6千だったといわれています。
6月13日午前4時から始まった山崎合戦は、天王山の争奪戦が最初の攻防でした。
当時の兵法では、多勢に無勢で臨む場合は野戦は避けるというので鉄則です。
しかし自分の城である坂本城などに入り籠城戦とした場合、京を秀吉に明け渡す形となります。
朝廷との繋がりに重きを置いていた光秀は、それは避けたかったのかもしれません。
兵の人数で3倍強という秀吉軍は、じわじわと包囲網を狭めていきました。
敗戦の色が濃くなる中、雑兵が崩れだし建て直しが出来なくなります。
御牧兼顕が「自分が切り込んで時間を稼ぐ間に逃げてください」といって突進し、光秀は辛くも脱出に成功しました。
光秀とともに逃げ延び勝龍寺城に入ったのは、数百人だったといわれます。
この勝龍寺城を取り囲まれ、坂本城を目指して逃げた光秀は、残党狩りの農民にあっけなく刺殺されたというのが一般的な光秀の最後です。
実際は光秀一行が襲撃された場所や、殺され方にも諸説あり事実は分かっていません。
明智軍の武将たちとともに、首が本能寺で晒されたというのは史実のようです。
歴史とは勝者の歴史である
この時代の歴史は、信長と信長を慕う秀吉によって作られたものといっても過言ではありません。
勝ったものはどんなに悪逆非道な事をしても罪に問われず正当化されます。
負けた者に、どんな素晴らしい志があったとしても、負ければ無いのと同じです。
秀吉が天下人になったのは、黒田官兵衛という軍師がいたことと、明智光秀が信長を倒した事の相乗効果でしかありません。
しかし歴史はこうした棚ぼた的な展開を見せる事があるのだと感じました。
コメントを残す