2020年NHK大河ドラマ「麒麟が来る」の主人公、明智光秀がいよいよ時代の表舞台に登場してきたころを紹介します♪
織田信長に出会うまでの記事で書いた通り、織田に誘われたのを一旦は断り足利将軍家に仕える事を選びました。
しかし実際は、足利義昭と織田信長の連絡係的な立ち位置となり、織田家に出向のような形になっていました。
大河ドラマ明智光秀の前半生 織田信長に出会うまで https://t.co/PlFynYgNaC
— ぱん@大河ドラマ「麒麟がくる」執筆中♡ (@pansars555) February 12, 2019
明智光秀の活躍
織田信長が後ろ盾となり、足利義昭は第15代将軍になりました。
この時織田は14代将軍に就いていた義栄を廃し、直ぐに岐阜に戻ってしまいました。
義栄をクーデターにより14代将軍に担ぎ上げた三好三人衆は、織田が岐阜に戻ったことを知り逆襲してきたのです。
光秀はこの時手元にあった鉄砲(種子島)を使い応戦し、織田郡が救援に戻るまでの間守り切ったと伝えられています。
緊急時の的確な判断と指示には、誰もが従ったことでしょう。
この合戦を機に、織田は足利義昭を守るため二条城を築く事を決めました。
この設計を明智光秀に任せたのですが、これにも才能を遺憾なく発揮する働きぶりだったそうです。
織田は、官僚的人材とばかり思っていた明智光秀が、戦にも優れた武将であることや城の設計にも秀でている事に気が付きます。
二条城が出来上がると、足利義昭は早速二条城に移りました。
この時、織田信長は京都奉行として明智光秀を任命しています。
明智光秀という名が歴史に刻まれ現代まで残されている資料としては、これが最初のものとなります。
斎藤道山と供に戦い敗れて落ち延び浪人同然だった明智光秀は、こうして頭角を現してきたのです。
明智光秀が足利と織田に仕えていた事実
二人の主人を持つという事が、この時代にあったという事に驚かされます。
実際、当時の「東寺百合文書」には、義昭から山城国下久世荘という領地を受けていたことが分かっています。
また信長が明智光秀にあてた手紙が残っており、そこには光秀が足利将軍義昭の側近「公方衆」の一員であったことが確認できます。
光秀は義昭の側近でありながら、「五か条の覚書」にも関わってくるのです。
足利義昭は、我こそは天下人であると自負しています。
義昭からみたら、織田は自分の家臣の筆頭という意識です。
一方、織田側からみれば義昭を擁護しているのは自分だと思っており、自分がいなければ義昭の存在は無いと考えています。
次第に対立し始める二人の間に取り交わされたのが、五か条の覚書です。
内容は天下の事は信長に任せたのだから、勝手な私信を出したり特定の大名に肩入れしたりしない事という、義昭の動きを封じるものでした。
ここに信長は「天下布武」の判を押し、義昭は黒印を押しています。
この覚書については、明確な事は今一つ分かってはいません。
しかしこれを仲介したのが光秀だということは判明しており、将軍側の家来でありながら自分の意を汲んで光秀が動いてくれたと信長が思ったとしても不思議ではありません。
光秀はこの当時としては抜きんでた教養があり、朝廷や将軍家と行き来するのに申し分ない礼儀作法を備え、同時に戦の指揮が的確で鉄砲の腕も確か、そのうえ信長寄りに意を汲んで足利義昭を操る強者という、信長にとっては願ってもない人材だったのです。
この五か条の覚書以降、光秀の異例の出世が始まります。
信長は、自分の意思を通すため義昭を使おうと画策し、義昭は封じられたはずの密書を各地の大名に飛ばし信長を倒そうとし始めます。
この後信長は浅井長政の裏ぎりに会うのですが、それもこうした二人の反目が原因の一つだった事が分かっています。
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