麒麟が来るの主人公、明智光秀の一番充実した日々が、長篠合戦の前後だったのではないかと筆者は感じています。
この頃の光秀は、一人三役、八面六臂の活躍を見せていました。
織田における行政官であり、坂本城主であり、織田軍の一翼を担う武将でもあったのです。
長篠合戦、正式には「設楽原合戦」といいます。
この合戦前後の明智光秀を紹介します♪
設楽原合戦前夜の光秀
義昭に呼応して反旗を翻していた松永久秀が降伏すると、その居城だった大和多聞山城に入って奈良の政務についての事務を執るように命じられ奈良に赴任しています。
これが年明けの頃といわれています。
さらに、信長の命により二人の娘たちが婚約しているのもこの時期です。
一人は細川忠興に嫁いだ明智珠(または玉)は、後の細川ガラシャです。
2月になると武田信玄の後を継いだ武田勝頼が明智城を包囲します。
この勝頼はドラマなどにあるような愚かな武将ではなく、武田信玄に勝とも衰えぬほどの戦上手だったそうです。
現に織田信長は上杉謙信に対し、「勝頼は手ごわく戦上手」と書いた手紙を送っています。
父信玄が最後まで落とせなかった高天神城を3日で落としているという事実もあります。
織田信長も新たな脅威を感じたことでしょう。
こうした戦の間にも、光秀は一向一揆の掃討作戦を進め、連戦連勝でした。
戦の最中にも、坂本城や京を行き来し、行政官としての務めも果たしています。
設楽原合戦と惟任日向守光秀の誕生
5月、武田勝頼は1万5千の兵を率いて再び美濃に侵攻してきました。
長篠城が包囲され、信長は3万の大群で出陣しました。
羽柴秀吉、丹羽長秀、滝川一益、前田利家、佐々木成正、徳川家康、明智光秀という層々たる顔ぶれです。
この戦いについて、織田は3千の鉄砲を用い三段撃ちで武田の騎馬隊を圧倒したといわれますが、これも史実ではないようです。
鉄砲を多用したことは事実ですが、三段撃ちなどはなく特に画期的な戦略でもなかったようです。
三段撃ちというストーリーを持って、信長が戦の天才かのように語られてきましたが、これも後から作られた脚本に過ぎないことが分かっています。
長篠合戦は鉄砲の数と兵の数で勝った織田軍が勝ったという正当な道理があってのことだと思われます。
逃る武田軍を一気に追い上げれば武田軍を殲滅できたかもしれないのに、この時もそれをしませんでした。
浅井・朝倉との最初の戦いでも相手が逃げるままにし、今回もそうです。
戦上手だったという伝説が果たして真実なのかと疑いを感じてしまいます。
一方織田にしてみれば、強敵武田軍に勝利したことで、ある種の高揚があったのでしょう。
明智光秀は鉄砲衆を指揮して勝利に貢献した事を感謝する感状を、信長から贈られています。
そしてその直後、織田信長の推挙により「惟任日向守光秀(これとうひゅうがのかみみつひで)」に改姓しています。
光秀は京都代官としての職務を離れ、織田軍の一大将という地位を手に入れたのです。
そして信長から新たに下った指令は、丹波攻めでした。
ここで光秀の人柄に少し触れておきたいと思います。
足利将軍家時代は上司だった細川藤孝も、この頃になると立場が逆転しています。
光秀の下になった細川藤孝ですが、光秀との関係はとても良好だったと伝わっています。
藤孝の長男細川忠興が、光秀の娘と結婚したことで、上司と部下というよりは親戚という絆の方が優先されたのではないかと思います。
またそれを可能にする光秀の思いやりや優しさがあったのではないかと考えられます。
天正3年、いよいよ光秀の苦難の丹波攻めが始まります。
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