2020年NHK大河で放映される「麒麟が来る」の明智光秀の前半生は確かな文献が無く謎に満ちています。
一方非業の死を遂げた光秀の墓もあちこちにあり、本当はどこなのか分かっていないという現実があります。
筆者の描く光秀ストーリーも、これからクライマックスへと突入します。
その前に、光秀の墓を紹介したいと思います。
明智光秀の菩提寺「西教寺」
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信長による比叡山の焼き討ちの際には一度焼失しています。
光秀が戦死した部下の供養のため、西教寺に供養米を寄進した際の寄進状が寺に現存しています。
また、境内には光秀の供養塔や光秀一族の墓が立っていることで有名です。
岐阜県山形市「桔梗塚」
マップでは検索できませんでしたので、こちらを参考にしてください。
光秀は領民にとっても、誠を尽くす人だったようです。
————–引用—————————————-
白山神社に隣接する林の中にある桔梗塚は明智光秀の墓とされています。光秀は、本能寺の変の後に身代わりとなった影武者「荒」木山城守行信に恩の「深」さを感じ荒深小五郎と姓名を改めたとされています。その後、関ケ原合戦で徳川家康に従軍しようと藪川(現・根尾川)を馬で越えようとしたときに洪水に巻き込まれ溺死しました。従者たちは光秀の遺品を持ち帰り、墓を建てたと伝えられており、現在も地域住民により毎年供養祭を行っています。
なお、明智家の家紋は「桔梗紋」で、土岐氏の家紋「水色桔梗紋」から用いたのではないかとされており、この桔梗紋にちなんで「桔梗塚」と呼ばれるようになりました。また、山県市合併当初、市民により選ばれた市の花も「キキョウ」であり歴史が脈々と受け継がれていることを感じられます。
————-ここまで————————————–
これが真実ではないとは誰も言えません。
もしかしたらと考えると、少しワクワクしませんか?
他にも光秀の墓はあちこちに現存します。
高野山奥の院
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高野山奥の院には層々たる戦国武将たちの供養塔があります。
その中に明智光秀の供養塔もあり、場所は石田光成や伊達政宗の隣です。
岐阜県明智町の龍護寺
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寺宝として明智光秀所有の直垂の布が縫い込まれた袈裟を所蔵しており、明智光秀の供養塔もあります。
京都市東山区の尊勝院
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尊勝院の境内にある梅宮社に明智光秀を祀る祠があります。
梅宮社は本来尊勝院の鎮守社で、かつて尊勝院境内に梅宮大社を勧請して創建された社でした。
また江戸時代に造られ、粟田口にあった明智光秀首塚と伝わる五重石塔が明治以降に梅宮社境内に移されました。
現在、梅宮社の祠は明智光秀を祀る祠となっています。
亀岡市の 谷性寺(こくしょうじ)
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谷性寺は別名光秀寺ともいわれるほど、明智光秀との縁が深い寺です。
明智光秀が天正3年(1575年)に始めて丹波の地に入って以来、当寺の本尊不動明王を崇敬してきました。
本能寺の変を決意した際は、不動明王に誓願し将兵はその加護を受け本懐を遂げたとされています。
「本堂」に向かって左側に「光秀公首塚」があります。
宮津市の盛林寺の首塚
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娘である細川ガラシャの居所から近い宮津に届けられて、この寺の供養を受けたという説があります。
位牌も祀らており、宝篋印塔の基礎に條鉄光秀居士と刻んであるそうです。
京都市山科区の胴塚
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明智光秀終焉の地が明確に分かっているわけではありません。
また農民に襲われ深い傷を負い自刀した際、家臣・溝尾庄兵衛尉が光秀の命により介錯し、首は隠されたという説。
一旦は隠したが農民が探し出し豊臣秀吉に渡ったという説。
坂本城に戻ったという説まであり、首の行方は定かではありません。
しかし胴部分だけはこの地に埋められたとして、胴塚が建てられています。
まとめ
生まれも謎なら最後も謎、こんな謎だらけの武将を、2020年NHK大河「麒麟が来る」では、どんな風に描くのでしょうか?
お墓だけでもこんなに沢山あることを考えると、光秀の死を当時の人は相当痛んだのではないかと想像します。
良き領主、良き家庭人、文武両道の稀有な武将、光秀の生き様をドラマ化する「麒麟が来る」が楽しみですね。
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