本能寺の変の黒幕か!?足利義昭とは「麒麟が来る」2020年NHK大河ドラマ

2020年NHK大河「麒麟が来る」で登場するかもしれない足利義昭とは、どんな人物だったのか紹介します。

登場するかもしれないと書いたのは、既に麒麟が来る前半のメインキャストが発表されたにも関わらず、足利義昭についてはまだキャストが発表されていないからです。

しかし、明智光秀と織田信長を繋いだのが足利義昭であり、もしかしたら本能寺の変の黒幕ではとも言われている重要人物です。



足利義昭の生い立ち

足利義昭は室町幕府最後の足利15代将軍です。

義昭は第12代将軍善晴の次男として1537年に生まれました。

兄義輝がこの後13代将軍になるため、本来であれば将軍になる順位ではありませんでした。

5歳の時出家し興福寺別当一乗院覚誉に入出し、覚慶と名乗っています。

1562年義昭25歳の時には一乗院門跡となり権少僧都という高位にまで昇格しています。

僧侶としての方が順風満帆な人生を送れたかもしれない人物です。

ところが世の中は戦国時代に突入していき、室町幕府の権威が失墜していきます。

13代将軍、兄義輝は室町幕府の権威を取戻そうと躍起になっていました。

そのため京都を取り囲む大名たちの勢力と争う事になっていきます。

結果三好三人衆などが義輝に反旗を翻し、殺害されてしまいました。

14代将軍となったのは、この三好三人衆たちが擁立した義輝の叔父・義綱の嫡男、義栄でした。

この時、義昭は一乗院に幽閉される形となりましたが、生き残った義輝の家臣たちに助けだされ難を逃れています。

義輝は、室町幕府の再興を掲げて、上杉謙信・武田義統・畠山義綱などに挙兵を促しましたが誰も対応できない状態にありました。

思いあぐねた義昭が訪ねたのが、隆盛を極めていた朝倉氏だったのです。

しかし朝倉氏は一向に立ち上がろうとしません。

そんな折出会ったので明智光秀でした。

明智光秀の助言もあり、義昭は織田信長という当時無名の武将に始めて目を向けたのです。

信長の力添えがあって、義昭は永禄11年、朝廷から正式に将軍宣下を受けて室町幕府再興を叶えたのです。

 

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本能寺の変から死ぬまでの光秀「麒麟が来る」2020年NHK大河ドラマ

 



足利義昭と明智光秀、織田信長の関係

足利幕府再興のため、15代将軍足利義昭の後ろ盾として信長が上洛します。

光秀は義昭の家臣という位置にありながら、信長と義昭の連絡係として織田家に出向という形になりました。

室町幕府再興のため信長は近畿を平定したいと考えていたのではないでしょうか。

最初から自分が天下に号令をかけるといった野心はなかったように見受けられます。

この頃野心家だったのは、むしろ明智光秀の方かもしれません。

どちらに着いた方が自分が有利になるか、義昭と信長の間にいて考えなかったはずはありません。

宮廷の作法や和歌や茶にも通じ、指揮能力も高く、築城の才覚も素晴らしい光秀という武将が、この時代に野心が無かったといったら嘘になるでしょう。

将軍となった義昭は、最初は信長に擦り寄り父のように慕っていたといいます。

しかし信長を副将軍にしようとして断られ、足利一族の官領である斬波の名称を継ぐ事も断られています。

織田にしてみたら、これらは足利将軍の配下になる事と同じだという思いがあったのでししょう。

信長は、織田家の軍事力があっての将軍だという事が分かっていたのだと思います。

義昭が再び三好三人衆たちに襲われる事件が起こり、信長は義昭の身の安全を計って新しい御所を造営しました。

しかしこの後から、二人の関係は悪化していきます。

自分こそ天下人という義昭と、自分がいないと何もできないだろうとほくそえむ信長との対立が徐々に大きな亀裂となります。

やがて信長包囲網を構築し、義昭は信長に強烈に対抗します。

しかし、ほぼ寄せ集めの兵力では信長に勝つことはできませんでした。

負けて敗退した義昭ですが、この後毛利元就を頼って落ち延びています。

その毛利も織田とは戦わず和睦するに至り、打倒信長を期待した義昭はがっかりしたでしょう。

1573年、義昭自身も織田との和睦の席に着きましたが、義昭の無理難題がたたって和睦に至りませんでした。

織田の圧倒的強さを理解できなかったらしい義昭は、その後和睦を諦め、再び信長打倒・室町幕府再興に動き出したのです。

実際、朝廷に宣下された将軍は、この時も義昭であることに変わりはありません。

本能寺文書で義昭が出した御内証に「信長討果上者」という書き出しがあり、信長を討ち果たしたうえはと解釈されたことから黒幕説が浮上しました。

正確には、「信長が討ち果たされた上は」と過去形で解釈するのが妥当なため、黒幕説には根拠が無いとされています。

豊臣政権樹立後、将軍職を辞退し、秀吉から山城国槇島において1万石の領地を認められました。

1万石といえど、元将軍職にあった人物ですから、扱いは大大名並みだったという事です。

秀吉の良き話し相手として余生を送り、1597年大阪で没しています。



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