2021年NHK大河ドラマ「青天を衝け」の主人公・渋沢栄一たちは、1年10か月ぶりの1868年11月3日の夕方、横浜港に戻りました。
出港するときは、大勢の幕臣たちに見送られ、華々しい船出でしたが、戻った横浜での出迎えは元幕臣らが数名、身を隠すように待っているという、想像もしなかったさみしいものでした。
徳川昭武は、横浜港には上陸せず、水戸藩士が用意した小舟で神奈川港に入港。
そのまま小石川の水戸藩邸に入りました。
渋沢栄一ら東京着
元将軍の弟・徳川昭武とは違い、供をしていた渋沢栄一たちは、まるで罪人かのような扱いを受け、身分の確認や所持品を徹底的に調べられた後、やっと入国が許されたという不愉快なものでした。
旧知の友人たちと日本食を楽しみ、昨今の日本の情勢を聞くなどして、東京に着いたのは11月7日になっていました。
この時、江戸は既に東京と、地名が変わっていたのです。
23日には父と会い、娘や妻が元気でいることを知って、ほっとしたのもつかの間。
尾高は帰郷したが、平九郎の消息が分からず、喜作も榎本武揚らと函館に向かったが、生死不明と聞かされ呆然とします。
加えて、長七郎が誤って人を切り投獄された後、出牢はしましたが、静養中に錯乱の発作でつい5日前の18日に亡くなったことを知らされます。
長七郎は、身体を張って、討幕を目指した栄一たちを止めてくれた人物です。
それがなければ、栄一たちはとっくに殺されていたかもしれません。
長七郎は、栄一が大阪から長七郎に出した手紙をもって栄一たちに会いにくる途中、人を切り捕縛されました。
その手紙の差出人として、渋沢栄一の名が露見することを恐れ、喜作と一緒に一橋家を頼ったのです。
渋沢栄一の運命のキーマンは、長七郎だったのかもしれませんね。
それにしても、渋沢栄一にとって、武士の世界がなくなったという現実を受け入れるのには難しいものがありました。
たった2年弱の間に、これほど変わってしまった日本を見るのは、まるで宇宙から戻った飛行士たちが、猿の惑星を見たようなものでしょうか。
政変に伴う壮絶な戦いを目の当たりにしたわけではない渋沢たちは、頭では理解しても、心がついていかない…そんな感じではなかったかと想像できます。
これからどうする?
父は栄一に対し、「これからどうするのだ?」と、身の振り方を訪ねます。
渋沢栄一の答えは、すでに決めていたのでしょう。
「これまで大変恩顧を賜った慶喜公がおられる静岡に向かいます。そこで農業や商いをして、公をお守りするつもりです」
この決断が、渋沢栄一が「日本近代資本主義の父」と呼ばれることになる扉を開いたことに、渋沢自身も気が付くはずもありませんでした。
月が替わって12月1日。
渋沢栄一は、5年ぶりに故郷・血洗島村に戻りました。
妻・ちよは、いつ帰るか分からない夫を待って、愚痴もこぼさず義父母に仕え、娘を育てていたのですから、やっと安心したことでしょう。
尾高とも久しぶりに会い、お互いの激動の2年を語り合いました。
やがて近隣の親族や知り合いも集まり、栄一が過ごした西洋の珍しい話に耳を傾けました。
故郷でいったん休養をした栄一は、東京に戻ります。
まだ使節団としての仕事が残っていたのです。
会計担当として行った渋沢栄一は、最後に経費の精算をする必要があります。
なんと渋沢は経費を残した状態で帰国していたのです。
これまでの使節団では決してなかったことで、これも財務管理に優れた渋沢栄一だからこそでしょう。
栄一は残ったお金のうち、8000両で最新式の鉄砲を買い、徳川昭武がいる水戸藩への土産にし、残りは静岡藩に渡すことにしました。
渡航費用を出してくれた幕府は無いのですから、残ったお金を戻すべき場所がなかったということでしょうか。
またフランスでエラールに依頼していた家具や什器の売り払いで出たお金も、送られてきました。
貧乏な新政府は、のどから手がでるほど欲しかったようですが、やりあった結果、それもすべて静岡藩に渡すことで決着させました。
結果、静岡藩に渡された額は、2万両にもなった言います。
当時の1両は、現代の15000円弱ということですから、静岡藩は3億円弱の金額を受け取ることになったということです。
「たなぼた~」以外の何物でもないような…
帰国する船の中で、栄一は徳川昭武にこう言われていました。
「水戸藩の藩主にはなるが、信頼できる家臣が傍にはいない。ぜひ水戸に来て、自分の相談相手になってはくれまいか」
2年余りも傍に仕え、お互いの人となりを信頼しあってきたという絆があります。
渋沢は慶喜も気になりますが、実はもっと気になっていたのが、徳川昭武のことでした。
渋沢栄一が兄・慶喜がいる静岡に向かうことを知った昭武は、兄に渡してくれるようにと、渋沢に預けました。
この手紙を慶喜に渡し、生活ぶりなどを確かめ、それを報告がてら水戸藩主・徳川昭武に復命し、仕えようという気持ちに渋沢はなっていたのではないかと思います。
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