2021年NHK大河ドラマ「晴天を衝け」の主人公・渋沢栄一は徳川慶喜の命により、弟の徳川昭武に同行しパリを目指します。
渋沢栄一は始めての海外渡航を「航西日記」を書き残しており、海外見聞録として高い評価を得ています。
この航西日記によると、最初の寄港地は上海だったようです。
渋沢栄一が見た上海とは
1867年1月11日に横浜を出港し、上海に着いたのは1月15日でした。
上海はアヘン戦争を終結させるために清国(中国)がイギリスと締結した南京条約によって開港させられたのが1842年のことです。
上海は清国政府の統治権がなく、イギリスとアメリカでなる共同租界とフランス租界で成り立っていました。
ちなみに租界とは清国内の外国人居留区をいいます。
渋沢栄一はそんな上海の様子を次のように書いています。
『川岸には外国人の官舎が連なり、それぞれの官舎は自国の国旗を高く掲げ、便利の良い地をしめていた。川岸にはガス灯が灯り電線が張られ樹木も植えられて道路も平たんで、ヨーロッパ的な様子が見られる』
想像してください。
江戸末期の日本の様子は、テレビなどで時代背景として馴染んだ風景を思い浮かべてみましょう。
そこからわずか4日後に目にした上海は、高層建築が続く街並み、光り輝くガス灯など、西洋の技術を見せつけるものでした。
ロウソクに馴染んだ眼には、ガス灯の光はまばゆいばかりだっただろうと想像できます。
しかし一歩中国人居住区に入ると、途端に道は狭くなり臭気を放つ肉が、それも何の肉が分からないようなものが売られていたりしたそうです。
道路に捨てられて水が溜まって汚れ、こちらも異臭を放っていました。
こうした二つの異なる世界を目の当たりにした渋沢栄一は、列強に支配される恐ろしさを身をもって知ったといいます。
アジア各国の港にて
上海を後にした渋沢栄一一行は、20日に香港に到着。
香港はイギリスの植民地として、イギリスの東洋進出の拠点であり東洋屈指の貿易港でもありました。
ここでもっと大型でもっと豪華なフランス郵船「アンペラトリス号」に乗り換えています。
25日、フランス領サイゴン(現ホーチミン)着。
フランス領だけに大変な歓迎を受けたとあります。
29日シンガポールに寄港。
2月7日にはセイロン(現スリランカ)に到着。
2月16日、アラビア半島南端にあるイギリス領アデンに入港し、スエズに向かいます。
当時はまだスエズ運河の完成2年前という時期にあり、渋沢栄一たちは始めての汽車に乗ります。
蒸気機関車の力強さ、早さに驚嘆し、車窓の風景に見入った様子が伺えます。
渋沢栄一が特に目を向けたのが、スエズ運河の建設作業を行う人々の作業風景でした。
スエズ運河は広く万民の便益のために建設されている知った渋沢は、「会社は個人の利益のためにあるのではない!会社とは公益の事業を行うものだ」と肝に命じ、実際それを成し遂げることになるのです。
2月21日の朝、汽車は地中海に面したアレキサンドリアに到着しました。
この日は古代エジプトの文明を紹介する遺物を見た後、フランス領事館にて宿泊。
明けて23日、蒸気船「サイド号」に乗り換え、シチリア島に寄港した後は目的地であるフランスを目指します。
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エジプトで渋沢栄一が見聞きしたこと
当時のエジプトの貴族たちは、一夫多妻が普通でした。
日本でも将軍や大名などは、後継ぎという名目で正妻以外の女性たちと当たり前のように同居していた時代です。
渋沢栄一は「航西日記」に次ぎのように書いています。
「貴族は一夫一婦の他に妾を持っている。多いのは数十人の妾を持つらしい。しかも妾が多いことを誇りとする風習がある」
渋沢栄一も妾を堂々と囲ったており、妻と同居させたりもしていたようです。
晩年、渋沢栄一はこんなことを言っています。
「自分は人生を顧みて婦人関係以外は天地に恥ずるものはない」
まさかこのエジプトでの見聞が影響したわけではないでしょうが・・・と思わず考えてしまいます。
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