2020年NHK大河ドラマ「麒麟が来る」の主人公・明智光秀ゆかりの地。
今までも主だったところはいくつかご紹介してきました。
今回は府県ごとに抜粋して、それぞれに伝説として残る光秀ゆかりの地を解説します。
光秀の前半生については明確な資料がないため、それぞれの自治体が「明智光秀ゆかりの地」と銘打って、2020年から始まる「麒麟がくる」に先立って誘致活動・環境整備を進めている場所を紹介します。
4ページにわたり、岐阜県の明智光秀ゆかりの地を紹介しますので、観光などのお役に立てれば幸いです。
[su_highlight background=”#0ad0d1″ color=”#fefdfd”]2020年NHK大河ドラマ「麒麟がくる」Ⅱの記事はこちらへ ⇩[/su_highlight]
岐阜県にある明智光秀ゆかりの地
明智光秀生誕の地といわれる岐阜県ですから、ゆかりの地は目白押しです。
2020年からのNHK大河ドラマ「麒麟が来る」も、地元の方たちの懸命な誘致合戦が功を奏した結果でした。
そして観光客の方たちに喜んでもらおうと、名物に磨きをかけたり新しいお土産の開発にも力を注いだり、麒麟がくるの放映を心待ちにされているでしょう。
岐阜城
岐阜県のシンボルタワー的な存在です。
道三の時代には、光秀もここを訪れたことがあるかもしれません。
元々は稲葉錠という名前の城でした。
金華山(きんかざん)山頂にあり、難攻不落の城としても知られ『美濃を制すものは天下を制す』と言われるほどでした。
戦国時代には斎藤道三の居城でもあった城です。
その後、織田信長がこの城を攻略、城主となり、地名を「岐阜」に、「稲葉山城」を「岐阜城」に改めたといわれています。
関ケ原の戦いの後、城は一国に一城のみという法令が制定され、岐阜城はその時廃城となっています。
現在の岐阜城は、昭和31年に復興された鉄筋コンクリート造り3で、層4階構造になっています。
城内は史料展示室、楼上は美濃を見下ろす展望台として多くの人に親しまれています。
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明智城は明智光秀が生まれた城という触れ込みですが、果たしてそうでしょうか。
実は明智城は二つあります。
まず一つ目の明智城は、現在明智城として整備が進んでいる場所。
もう一つが長森城、こちらも明智城と呼ばれていたようです。
明智光秀の生誕地といわれる現在の明智城ですが、実際は光秀が生まれたころは明知遠山氏の居城だったことが分かっています。
地元では大々的に光秀が流浪の旅に出ざるをを得なかった時代までここで過ごしたと声を大にしていますので、光秀居城として紹介します。
現在の明智城は明智城址公園として石畳のハイキングコースも整備されています。
今や城内には至る所に「明智光秀公生誕地」のノボリがひしめいていて水色の明智桔梗紋がたなびいています。
落城の際の戦没者を祀る七ツ塚。
当時の防衛設備の一つ、逆茂木が復元されています。
本丸らしい跡地には、土塁や竪堀、堀切など、山城らしい防衛施設などの遺構は見当たりません。
駐車場も整備され、駐車場にはハイキングマップの看板もあります。
当時に思いを馳せながら散策してみるには、一番手ごろな場所かもしれません。
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明智城、別名長森城。
南北朝時代の1339年、第二代美濃国守護職の土岐頼遠が土岐郡(現土岐市)からこの長森城に移り、城郭として整備をしたという歴史があり、その後代々土岐氏の居城となったとあります。
1353年長森城が手狭になったため、第3代守護職・土岐頼康は川手城を築城、本拠地を川手城に移しています。
長森城は土岐氏の土岐直詮が城主となったと記録されています。
廃城時期は不明ですが、斎藤道三が美濃国を支配し、拠点を稲葉山城に移した頃と考えられています。
明智光秀の明智の姓は、明智城があった地名に由来しているらしいのは事実だとされています。
しかし明智を名乗ってから数代後、同じ美濃の可児郡・明智庄に移りました。
ここにあったのが、長森城だったのです。
さてどちらが光秀が生まれた明智城だったのでしょうか。
歴史の事実は確かに存在していますが、不透明な部分は個々が勝手に妄想しても許される部分ではないでしょうか。
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