細川ガラシャの義父であり、明智光秀とは朋友ともいえる間柄。
細川藤孝とは、どんな人物だったのでしょうか。
2020年NHK大河ドラマ「麒麟が来る」では、眞島秀和さんが演じます。
細川藤孝の生涯
最初は室町幕府13代将軍・足利義輝に仕えていた幕臣でした。
1534年4月22日、三淵晴員の次男として京都東山で産まれました。
幼名は萬吉(まんきち)。
7歳で伯父である和泉半国守護・細川元常(三淵晴員の兄)の養子となったといわれていますが、諸説あるようです。
1546年、将軍足利義藤(後の義輝)の一字を賜り藤孝と名乗るようになりました。
しかし義輝が三好三人衆らに討たれると、監禁されていた弟義昭を助け出し将軍職への復帰を擁護していくことになります。
近江国の六角義賢、若狭国の武田義統、越前国の朝倉義景らを頼って義昭の将軍任官に奔走しましたが叶いませんでした。
当時は貧窮して灯籠の油にさえ事欠くほどで、仕方なく社殿から油を頂戴することもあるほどだったといいます。
そんな中、越前・朝倉氏に仕えていた明智光秀と出会うのです。
光秀の仲介により織田を頼り、京へ戻ることができました。
15代将軍となった義昭と、後見である信長の間に不穏な空気が立ち始め、お互いが対立するようになると、藤孝は織田側につきました。
織田に従った藤孝は、長岡 藤孝(ながおか ふじたか)を名乗って丹後宮津11万石の大名となっています。
1582年に本能寺の変が起こると、藤孝は上役であり、親戚でもあった光秀の再三の要請を断り、剃髪して雅号を幽斎玄旨(ゆうさいげんし)とし、田辺城に隠居、忠興に家督を譲っりました。
同じく光秀と関係の深い筒井順慶も参戦を断り、窮地に陥った光秀は山崎の戦いで敗死しています。
織田滅亡の後は豊臣秀吉に仕え、千利休や木食応其らと共に秀吉側近の文化人として寵遇されたようです。
秀吉の没後は徳川家康にも仕え、同じように重用されました。
関ケ原の戦いを前にして、出陣した嫡男(当時は当主)忠興に代わって、三男の細川幸隆と共に500に満たない手勢で丹後田辺城を守ります。
この時、大阪にいた細川ガラシャは、石田光成の人質になることを嫌い自害しています。
この籠城戦の最中、藤孝は使者を通じて『古今集証明状』を八条宮に贈り、『源氏抄』と『二十一代和歌集』を朝廷に献上しました。
結果、三条西実条・中院通勝・烏丸光広が勅使として田辺城に下され、関ヶ原の戦いの2日前の9月13日、勅命による講和が結ばれました。
幽斎は2ヶ月に及ぶ籠城戦を終えて9月18日に城を明け渡し、敵将である前田茂勝の丹波亀山城に入っています。
藤孝の息子・忠興は関ヶ原の戦いにおいて前線で石田三成の軍と戦いました。
戦後褒賞として豊前小倉藩39万9,000石の大封を得、肥後細川家を築いていくことになります。
以後長岡姓は細川姓に戻りました。
幽斎(藤孝)は京都吉田で悠々自適な晩年を送ったといわれています。
慶長15年(1610年)8月20日、京都三条車屋町の自邸で死去。享年77。
二条流の歌道伝承者・三条西実枝から古今伝授を受け、近世歌学を大成させた当代一流の文化人でもありました。
墓所
京都市左京区南禅寺福地町の瑞竜山太平興国南禅寺の塔頭寺院である天授庵に墓があります。
他にも熊本の立田山の麓に建立された細川家菩提寺の泰勝寺(現・立田自然公園)にも廟所が、また、幽斎の菩提所として忠興により大徳寺山内に建立された塔頭が高桐院です。
まとめ
当時のエリート中のエリートと言える人物。
文武両道、牛の角を持って巨体を倒すほどの力もあり、泳法にも優れていたそうです。
出世街道まっしぐら的な生き方に嫌悪を感じるのは、筆者のヒガミ以外の何物でもないことは自覚しています。
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