2020年NHK大河ドラマ「麒麟がくる」の主人公、明智光秀ゆかりの地㏌京都を、Ⅰ・Ⅱに引き続き紹介します。
明智戻り岩
能勢方面へ向かう法貴峠の旧道には、屏風岩などの名がついた巨岩群があります。
光秀が丹波を平定する際、こうした自然の要害ともなる巨岩にも苦しめられていました。
「明智戻り岩」も、光秀が丹波平定に向かう途中に行く手をさえぎられ引き返し、「明智戻り岩」と呼ばれるようになったと伝えられています。
2019年現在、台風や豪雨などの影響で、現地に入るのは危険な状況です。
国道423号から見下ろすことはできますが、交通量の多い歩道のない峠道ですので余りお勧めできません。
もしかしたら自治体で「麒麟がくる」の放映による観光客の増加を見越して、それなりの改修が行われる可能性があります。
訪れたいと思った方は、亀岡市観光協岡などに確認してください。
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正式には小畠川という小さな用水堀です。
地味ですがご紹介しておきましょう。
面白い逸話が残っています。
本能寺で信長を討ったあとの出来事です。
意気揚々と亀山城に引き上げる光秀は、一人の農民に声をかけました。
「東に見える火事がどこか当てたら望みの物を与えよう」すると農民は即座に「本能寺」と言い当てました。
農民の望みは、農業用の水が不足しているため、川を引いて欲しいというものでした。
光秀は早速その望みを叶えやり、その川はそれから明智川と呼ばれるようになったそうです。
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宝篋印塔首塚という光秀の首塚があります。
大久保山城にいたガラシャに光秀の首が送られ、ここに埋葬されたと伝わっています。
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丹波平定の際、奥上林地方の土豪達は、光秀の意にそわない動向が多かったとそうです。
そこで天正7年10月、睦寄町の金剛寺が兵火にかかって焼き打ちをうけています。
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丹波に進軍してきた光秀に、山家城主和久左衛門は降伏しました。
その降伏の条件が、山家城を廃城とすることでした。
しかし城内に照福寺があったため寺であるとし城郭を取り払わなかったため、1580年6月20日に光秀の軍に攻め落とされました。
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明智光秀が福知山城を築くとき、城の棟木に必要な松の大木を探していたところ、しずく松・ゆるぎ松を探しあてました。
早速木こりを派遣し松を切らせました。
しかし切った松のくずが一夜にして元の松に戻ってしまい、日がな一日切ったものが全く無駄になるという始末。
どうしても切り終えることが出来ないことに腹を立てた家来は、切ったおがくずを都度燃やし何とか切り終えたという伝説があります。
雫松の皮の一部と伝えられたものが現存しています。
厚さが一〇センチメートルほどもある実に巨大で見事な松皮です。
保存されているのは、志賀郷公民館です。
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こちらも光秀丹波平定の際は焼き討ちにあい23坊を焼失しています。
その時も焼け残ったのが仁王門。
鎌倉時代の宝治2年(1248)建立の二王門は、丹塗りの色彩が荘厳で京都府北部の建造物としては唯一国宝に指定されています。
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光秀ゆかりの寺というよりは、足利氏にゆかりの深いお寺さんです。
なぜここを紹介するかというと、この寺には明智光秀と明智秀満に諸式令免許などを与えた古文書が残っているからです。
光秀は福知山を治める際、この寺の住職にアドバイスを受けたとされ、1580年2月に判物を発給しています。
「当寺事、任往古之旨、諸式令免許訖、仍陣取并竹木等剪捕之事、堅令停止之状、如件 天正八 二月十三日 光秀(花押) 天寧寺」
1年後、秀満に出されたものは
「当寺之事、光秀判形之旨無相違、諸色令免許訖、被得其意、可被任覚悟者也、仍如件 天正九 十月六日 明智弥平次秀満(花押) 天寧寺 納所禅師」
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