織田信長の長篠の戦い「麒麟が来る」2020年NHK大河

前回に引き続き、信長が軍略の天才といわれる要因となった二つ目の長篠の戦いの真実をみてみましょう。

長篠の戦いは、武田勝頼対織田信長の構図です。

武田信玄の跡を継いだ武田勝頼ですが、物語にあるような愚鈍な武将ではありませんでした。

もしかしたら父親より優れているのではという説もあるほどです。

その武田軍が織田軍と正面衝突をし、織田が勝ったのが長篠の戦いでした。

この戦いで信長は3千丁の鉄砲を使い三段討ちという戦法を使って武田騎馬隊を撃破したとして有名です。



長篠の戦いの嘘

明智光秀も幼少の頃、斎藤道山の手ほどきを受けて鉄砲の名手となったといわれます。

当時の鉄砲といえば、「種子島」ともいわれる火縄銃です。

ほぼ手作りの火縄銃ですから、一丁一丁に個性が生じてきます。

また最初の弾を撃った後、平常時では20秒ほどを要したそうです。

戦場では1分弱は掛かるのかもしれません。

撃って後ろに下がり、前進して狙いを定め再び撃つ前に、敵に踏みにじられていたでしょう。

狙いを定めるについても、照準という点で火縄銃の性能はかなり低かったそうです。

前述した一丁一丁の個性と相まって、よほど兵を鍛錬しておかないと実践では使えないというのが実情でした。

加えて武田騎馬隊は有名ですが、馬に乗っている人物はそれなりの将のはずです。

その人たちが前線で最初の突撃を行うなど、考えられないそうです。

もしこの鉄砲隊が上手くいったのであれば、この後の戦でも使われるはずですが、そうした痕跡はありません。

例え一斉射撃をしたとしても、火縄銃の射程距離は30メートルですから、その距離まで武田軍が都合よく横一列に並んで進んできたとは考えにくのではないでしょうか?

織田軍は、とにかく野戦にめっぽう弱い軍隊でした。

前の記事でも書いたとおり傭兵ですから、危なくなれば逃げるものが後を絶たなかったのです。

そのため野戦の軍事力を強化するため、鉄砲を用いたというのは真実のようです。



長篠の戦いの真実


長篠は徳川の領地です。

以前から徳川は武田に何度か攻め込まれ、徳川の領地は減り続けていました。

攻められる度、同盟を組んでいる織田に援軍を依頼しますが、織田はわずかばかりの兵しか送ってきませんでした。

しかし織田にしても、何度もそれでお茶を濁すわけにはいきません。

そこで手を打ったのが、長篠に陣を張り、武田が誘いに乗ったら戦い、そうでない時は戦わないというものでした。

本来であれば、織田3万の兵が陣を敷いているわけですから、武田軍1万5千は長篠城の包囲をといて引き上げるのが常套でした。

しかし織田軍が野戦に弱いのは当時は誰もが知るところでしたし、逆に武田軍は野戦にかけては追随を許さない強さを誇っていました。

この当時、陣の前には鉄砲や馬をよける馬防柵がありました。

柵を破るべく前進した武田の兵たちは、柵の間から発する鉄砲に撃たれ前進することができません。

織田軍は柵から出る事なく鉄砲を使った応戦のみで、織田が一番弱い白兵戦に持ち込むことは出来なかったのが武田の敗因の一つです。

また武田は陣を構える場所を間違えたともいわれています。

武田勢を後ろから攻撃するため、織田軍の酒井隊があるみ原に向かいました。

このままでは退路を塞がれると知った勝頼は、旗本衆を反転させ酒井隊に向けました。

旗本衆といえば、本陣の近くにいるのが常です。

彼らの反転を本陣が逃げ出したと味方が勘違いし、武田軍は一気に浮足だってしまいました。

この戦いで武田は多くの死者を出しています。

武将も敗死してますが、一番の痛手は兵を失ったことでした。

兵とは、通常は農民です。

だから当時の戦は農閑期に進軍するのが常でした。

農業生産能力が一気に落ち、経済的に立ち行かなくなったことで武田は滅亡へと向かっていきます。

信長が鉄砲を多用したのは事実のようです。

しかし3千丁の3段撃ちは、後の世の作り話だったと思われます。



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