尾張の虎と呼ばれた織田信長の父、織田信秀。
2020年NHK大河「麒麟が来る」では、高橋克典さんがキャスティングされています。
信長にばかりスポットライトがあたり、どういう人物だったのかはあまり知られていませんでした。
興味があって調べてみましたので、詳細を紹介します♪
織田の繁栄は祖父信定・父信秀あってこそ
信長の織田家は、元々本家筋ではなく、尾張の守護、斬波家に仕える尾張の守護代、清州織田の三奉行の一つという庶流の小さな家でした。
父は信定、母は織田良頼の娘と伝わっています。
決して初めから身分が高い家柄というわけではありませんでした。
信長の祖父にあたる信定が津島を手に入れたことで、信秀が勢力を拡大させる経済力を持つに至ったのです。
信秀の父、信定が存命中に家督を譲れていることから、信秀は若いうちから優れていたのではと推察されます。
家督を相続すると直ぐに地盤を固め始め、同時に朝廷から沢山の賓客を招いて連日蹴鞠会を催すなどして自分の顔を売るという、かなり現代的な営業活動も行ったようです。
1538年今川義元の弟、今川氏豊の居城であった那古野城を攻め落としています。
この那古野城は、現在の名古屋城にあたります。
実は今川氏豊と織田信秀は、お互い蓮歌を楽しみ城に泊まりに行くほど仲が良かったといわれます。
余り確実な資料が残されていない時代ではありますが、山科言継(ときつぐ)という公家の残した日記とされる『言継卿記』には、まだ12歳だった竹王丸(たけおうまる)、のちの今川氏豊が何度も信秀が催す蓮歌の会に出席していたとあります。
名古屋を平定するにあたり、次々城を築き自分も居城を移しながら経済的基盤を確かなものにしていきました。
この経済基盤の中には、父信定が掌握した津島を基地とする海運も含まれます。
津島とは、尾張の西部にあった港町です。
伊勢湾貿易の要衝であり、かつ、多くの参詣者が集まる牛頭(ごず)天王社の門前町でもありました。
当時の大名達は、自分の居城は動かず周りの土地を少しずつ侵略していくというのが普通でしたから、信秀のやり方は別格だったと言えます。
これを見ると信長より着実で革新的だったといえるのではないでしょうか。
こうした経済力を元に、当時衰退の一途を辿っていた朝廷や足利幕府、伊勢神宮にまで多額の献金をしています。
織田信秀の衰退と死
勢力を拡大しようとした信秀は、美濃の斎藤道三と衝突し大敗します。
今川からの攻められ、こちらも敗北しています。
斎藤・今川に攻められた織田は、かなり苦しい状況となり和睦を選びました。
斎藤家からは、娘の帰蝶が織田信長に嫁いでいます。
今川家とも和睦しようとしていましたが、なかなか上手くいきません。
そんな中、信秀は流行り病であっけなく死んでしまったようです。
1552年、信秀42歳という年齢でした。
今川に押され続けていた最中、信長が家督を継いだという事になります。
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信秀は天下を目指していたのか!?
あくまでも筆者の想像です。
信秀は外交的な手腕も優れた武将であり、かなりの合理主義者だったのではないでしょうか?
一方信長の合理主義は、後の世で絶賛されるほど確かなものです。
人からの信頼を勝ち得る点については、信長より信秀が上だったのではないかと想像します。
しかし戦いの勘のようなものは信長が上だったのではないでしょうか?
信秀存命中に桶狭間の戦いが起こり、信長が今川を倒したのを見届けたとしたら、天下を考えないはずはないと思います。
信秀・信長の主軸である合理性では意見が一致するでしょうから、親子の確執もそれほどなく上手くいったのではないかと考えます。
全ては、「たら・れば」の域をでませんが、当時の武将たちに思いを馳せながら2020年の大河「麒麟が来る」を観るのは面白いでしょうね。
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