明智光秀最後の地 本当はどこ?

2020年NHK大河ドラマ「麒麟が来る」のラストシーンだろうと予想される、明智光秀の最後の地。

噂・伝説・言い伝えなどなど、どれも不確かなものばかりです。

明智光秀最後の地について、筆者も色々な情報を調べてみました♪



明智光秀の最後は自害?撲殺?刺殺?

明智光秀の最後は、その死に様にも諸説あります。

一般的に知られているのが自害説ですが、これは浦庵の太閤記の記述によるものです。

数名の側近とともに、馬に乗って小栗栖(おぐるす)を通過していた際、藪の中から突き出された槍で、右わき腹に重傷を負いました。

光秀は家臣に「首を打って知恩院で火葬。胴体は田の中に隠せ」と命じたといわれています。

ただ多数の文献が、供回り数名或いは光秀一人で深田の中を這いずって坂本城を目指していたとあり、馬上という設定には疑問が呈されています。

また槍で突かれたという説は、後世の軍紀ものに多く記載されており、資料としての信ぴょう性に欠けるともいわれています。

『太閤様軍紀のうち』と題した当時の一次資料が現存します。

それには「坂本の居城を心がけ落ち延びているのを、醍醐・山科辺りの百姓どもが落人と見および、棒打ちにて討ちとめた」とあります。

高価な刀などを奪い取るため、撲殺したという話が一番史実に近いのではないかと考えられます。

明智光秀最後の地

槍で突かれたとされる小栗栖村や百姓に襲われたという醍醐・山科辺りのほかにも諸説あります。

晴豊記(はれとよき)では勧修寺在所(かじょうじざいしょ)。

言経卿記(ときつねきょうき)では醍醐辺り。

多聞院日記では、山科。

蓮成院記録(れんじょういんきろく)では、上の醍醐。

高木文書では山科藪中。

信長公記写本では小栗栖辺り。

これらはどれも一次資料に限りなく近い文献です。

醍醐・山科・小栗栖は距離的に近いことから、小栗栖周辺が明智光秀最後の地だろうというのが最も有力な説です。

明智光秀 最後の手紙かも…

2017年、三重大の藤田達生教授(日本近世史)は、明智光秀の筆跡・花押が確認できたと発表。

明智光秀直筆の手紙が見つかったという、歴史的に重要な発見でした。

それは本能寺の変の10日後。

ということは、亡くなる前日ということになります。

手紙は紀州の武将、土橋重治に宛てたもので、当時、反信長筆頭であり、信長に追放された足利義昭とも密に連絡をとっていた人物です。

手紙の内容は、足利義昭の入京をお受けしますというものです。

やはり足利幕府の再興を、明智光秀は描いていたのでしょうか?

明智光秀の最後からさらにその後

百姓たちに討たれ絶命した後の光秀は、その後どんな扱いを受けたのでしょうか。

光秀の遺体は京都所司代に差し出されたとあります。

その後本能寺に運ばれ、晒し首にされました。

この時、光秀の家臣や親族など3000余りの首級が一緒に晒されたそうです。

さらに首と胴体を繋がれ、三条粟田口で改めて磔刑に処せられたと記録されています。

この時、光秀の重臣だった斎藤利三(春日局の父親)も一緒でした。

斉藤利三はいったんは山崎から逃れて、同じく光秀の重臣だった猪飼野秀貞を頼ったのですが裏切られ、秀吉に差し出されてしまったのです。

市中引き回しのうえ六条河原で処刑され、光秀同様首と胴を繋がれての磔刑でした。

粟田口は京都の幹線道路だったことから、明智方3000余りの首と一緒に天下の大罪人として群衆に晒されたのです。

今もこの地は、光秀の首塚として残っています。

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明智光秀の首塚

実は明智光秀の首塚は粟田口だけではありません。

首塚や墓所がこれだけ沢山ある武将も珍しいかもしれません。

もしかしたら、これは光秀が領民に慕われていた証でしょうか。

粟田口以外には、亀岡市にある真言宗寺院・谷性寺(こくしょうじ)。

光秀の家臣・溝尾庄兵衛が光秀の首を隠し持ち、ほとぼりが冷めたころを見計らってここに葬ったといわれています。

谷性寺の「光秀公首塚」は、実際には光秀没後270年ほど後に建てられたものです。

非業の死を遂げた光秀の菩提を弔うという意図で建立されたものと推察できます。

滋賀県大津市、天台宗寺院・西教寺には明智一族の供養塔が建立されています。

この地を光秀が治めた際、光秀が総門や庫裡を寄進したとあり、そうした縁で菩提を弔っているのでしょう。

そして高野山奥の院にも明智光秀の墓所があります。

供養塔は五輪の塔で築かれているのですが、何度作り直しても中央の丸石にひび割れが入るという伝承があります。

光秀の無念がそうさせるのか!・・・とも思えてしまう不思議な言い伝えです。

さて、2020年NHK大河ドラマ「麒麟が来る」では、明智光秀の最後をどう描くのでしょうか。

光秀を知れば知るほど、余りに悲惨な最後は見たくないと思ってしまう筆者です。

(この記事は2019年7月9日に公開され、2020年2月7日に加筆修正しました)

明智光秀辞世の句はこちら



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