討幕を掲げ尊王攘夷を良しといて活動していた渋沢栄一が、武士になり幕臣になり、今度はフランスへ立つことになりました。
夷狄討つべし!と声高に叫んでいた青年に、どんな心境の変化がおきたのでしょうか?
それもこれも徳川慶喜という将軍に仕えることを決意したこと。
慶喜自身も渋沢栄一の能力を高く評価していたことに始まっています。
幕府の後ろ盾はフランス
幕末を知る人なら、薩長の後ろ盾はイギリス、幕府の後ろ盾はフランスという構図を知っているでしょう。
イギリスは薩摩藩に敗れた薩英戦争や長州藩と戦った下関戦争などを通じて、逆にこれらの藩への協力・支援関係を築いていたのです。
日本への介入に後れを取っていたフランスは、慶喜の信頼を得ようと必死でした。
フランス人・ロッシュ公使は2年後に開催されるパリ万博に日本も参加してはどうかと勧めます。
慶喜はこれを快諾。幕府の他に薩摩藩なども参加を表明しました。
渋沢栄一 フランスへ
徳川慶喜が幕政を離れてフランスに行くことはできません。
変わりに慶喜の弟、民部公子(みんぶこうし)=徳川昭武が行くことになったのです。
万博だけではなく、見聞を広めるため3年から5年の留学も予定されました。
その時の徳川昭武は14歳。
長期のフランス留学に際し、慶喜が同行者として選んだのが渋沢栄一でした。
慶喜には、もう一つの目論見があったようです。
昭武のお供として藩士を同行させて欲しいといってきたのが、夷狄を目の仇にている水戸藩でした。
こうした水戸藩の藩士や他の同行者との間を取り持ち、うまくまとめられるのは渋沢栄一だと慶喜は考えたのです。
将軍慶喜からの内命を伝えたのは側用人の原一之進でした。
原は渋沢栄一が攘夷論者であることを知っていたため、断るのではないかと懸念したそうです。
しかし渋沢栄一は、「自分は既に攘夷論者ではありません。強い外国をこの目で見て知りたいと考えております」と答え、原をホッとさせました。
尊王攘夷を叫んでいた栄一からわずか3年後の出来事でした。
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渋沢栄一 いざフランスへ!
1867年1月3日。栄一は民部公子のお供をして京をでました。
1月5日に幕府の軍艦「長鯨丸」に乗り込み、9日に横浜に着きました。
横浜に着いてから、栄一は妻子にフランスに行く旨の手紙を出しています。
しかしその手紙が着いたころには、栄一たちははるか洋上を進んでいたころでした。
この前渋沢栄一が妻子にあったのは、関東にある一橋慶喜公の領地を回って募兵していた時でした。
それは栄一が武士になってまもなくのことですから、それから3年近く家族は会っていないことになります。
さらに3年をフランスで過ごすとなると、娘は8歳くらいでしょうか。
父である渋沢栄一を覚えているのか、会ってもそれと分かるのか、老婆心ながら心配になってしまいます。
また妻ちよに宛てた手紙には、ちよの弟尾高平九郎を渋沢栄一の養子にしたいとありました。
跡取りのいない幕臣が外国に赴く際は、見立て養子を立てるというのが当時の決まりだったためです。
それほど海を渡るというのは命がけであり、大変なことだったのだということが伺えます。
フランスのパリ万博に向かった使節団は徳川昭武を含めて日本人は総勢33名。
渋沢栄一の役どころは御勘定格陸軍附調役というもので、庶務・会計が仕事です。
1867年1月11日。フランス郵船アルヘー号に乗船し、朝9時横浜港からフランスに向けて出港していきました。
海軍奉行や勘定奉行など幕府の要人たちが沢山見送りにきていたそうです。
そしてこれが「幕府」という形態を渋沢栄一が見た最後のシーンとなりました。
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