渋沢栄一たちが日本に帰国する少し前、日本を根底からひっくり返すこととなった「大政奉還」が行われました。
実際は、徳川の世が終わる・武士の世が終わるといった認識は、徳川慶喜にはなかったようです。
大政奉還に至る流れと、徳川家康の思惑を少し紹介しましょう♪
頭が良すぎた徳川慶喜
大政奉還前、徳川慶喜の最大の課題が二つありました。
①第二次長州征伐
②修好通商条約で締結された、兵庫開港・新潟開港・大阪開市・江戸開市
特に兵庫開港と大阪開市は、ロンドン覚書で1867年12月7日が執行日とされていました。
1867年3月、慶喜は各国の公使らと大阪城で会見。
ここで兵庫開港を、確約したのです。
ただしこの約束は、天皇の許可(勅許)を得てはいませんでした。
これを朝命違反であると判断した西郷や大久保は、四侯会議で慶喜を責める作戦に出ました。
四侯とは、島津久光・伊達宗城・山内容堂・松平春嶽をさします。
西郷らの狙いは、開港を阻止することで幕府を追い詰め、息詰まらせることにありました。
しかしすんなりと計画通りにはいきません。
慶喜の巧みな弁舌と懐柔策で、あっけなく四侯は返り討ちにあってしまったのです。
慶喜は朝廷でも言葉巧みに主張を行い、天皇からの勅許を手に入れることに成功。
この結果、政略に優れる慶喜を排除しない限り、日本を変えることはできないと判断した西郷らは、武力行使もやむなし! と判断したのです。
坂本龍馬 船中八作と大政奉還
土佐藩の後藤象二郎と坂本龍馬は、1867年、京に向けて長崎を出発しています。
この船の中で龍馬が後藤象二郎に示したのが、有名な「船中八作」です。
これは天皇を中心とした国家をつくるための、基本方針ともいうべきものでした。
その最初にあったのが、大政奉還です。
事実上の政権を握る徳川幕府から、朝廷に実権を戻すことを意味する大政奉還を、一刻も早く実行するべきだと、龍馬は力説しています。
土佐藩・山内容堂に、慶喜に大政奉還をすすめ、それが実行された暁には、土佐藩が実権を握れる…そんな風に説得された山内容堂は、さっそく慶喜に大政奉還を建白します。
慶喜は、薩長の武力行使による討幕を阻止するため、これをのみました。
なぜなら例え大政奉還を行っても、圧倒的な勢力を誇る徳川が、政権の中枢部にあることに違いはないと考えたからです。
慶喜が大政奉還を行った同じ日、薩長藩に討幕の密勅がでました。
大政奉還が行われ、天皇によって勅許された事実があるわけですから、これは無効の密勅といえます。
それも明治天皇の直筆ではなく、花押もなかったという、薩摩藩と公家・岩倉具視らの陰謀でした。
大政奉還がなされたことで、徳川幕府は終焉を迎え、武家政権が事実上終わったのです。
王政復古の大号令
将軍職に辞表を出した形の徳川慶喜ですが、今まで政権など担ったことのない朝廷では、それを簡単に受理することができませんでした。
結果、辞職は保留のまま、今までどおりの徳川体制が続くことに変わりはありません。
何も変わらない現状に業を煮やした薩長が計画したのが、王政復古の大号令という名の、クーデターでした。
天皇を手中にし、一気に朝廷を抱き込むというものです。
この計画を事前に慶喜は知ることができましたが、開港直前のため、主要な幕閣の多くは京を開けており、信頼できる家臣も近くにはいないという状況でした。
岩倉具視を中心に、京では着々と計画が進められていきます。
そして薩摩藩を筆頭に、五藩が一挙に禁裏の全門を封鎖。
守衛にあたっていた会津藩や桑名藩の兵士は、二条城に引き上げるしかありませんでした。
禁裏への出入りは厳しく制限され、今ままで守護を預かっていた会津藩や親王でさえ、出入りすることは叶いません。
用意周到なクーデターが大成功し、天皇は王政復古の大号令を発したのです。
政権の人事が一気に刷新され、まったく新しいものになりました。
しかしこの人事の中に、徳川慶喜の名はありません。
慶喜の聡明さが、よほど怖かったのだとしか思えませんね。
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