2021年NHK大河ドラマ「青天を衝け」の主人公・渋沢栄一たちが、フランスで日本の様子を遠巻きに観察していたころ、徳川慶喜はほぼ孤軍奮闘状態で幕府の存続のために戦っていました。
王政復古の大号令が発せられ、徳川慶喜は、あからさまに政権から遠ざけられたにも関わらず、これだけでは幕府の弱体化はほど遠いと、次なる陰謀の渦に巻き込まれていくのです。
渋沢栄一の物語からは少し離れますが、当時の日本をもう一度おさらいしておきましょう。
連合政権の不協和音
王政復古の大号令後、発足した政権は、公家・薩摩藩・土佐藩などの連合政権です。
新政権の最初の課題は、徳川慶喜の処遇についてでした。
「兵庫開港を勝手に進めた慶喜は、朝廷をないがしろにした!大政奉還だって、本心かどうか分からないぞ!」と憤る藩。
「さにあらず! 大政奉還は慶喜の忠心からでたものだ!」という幕府を擁護するもの。
「今回の騒ぎは、少数の公家の陰謀だ!」と口を滑らせてしまう者がいれば、「公家の陰謀とは何事か! 口を慎め!」と、叱責する公家がいたりと…
まるで烏合の衆のような様相です。
それぞれが自分の身が一番かわいい…それが如実に出ていたのではないでしょうか。
議題が徳川の領地と慶喜の官位に及ぶと、それらはすべて返納すべきだという話になりました。
これを慶喜が拒絶した場合、討伐も辞さないという断固とした態度をとったのが、大久保利通らでした。
なにしろ新政府とは名ばかりで、収入減はなにもありません。
徳川の領地の半分で200万石ですから、のどから手が出るほど欲しかったのでしょう。
議論はいったん物別れに終わり、休憩。翌日再開しました。
この休憩の間に、徳川擁護派が懐柔され、慶喜の領地と官位の返納が決まりました。
徳川幕府や慶喜に肩入れしても、先がない・・・そう考えたとしても、責められません。
しかし慶喜が、この決定に素直にうなずくはずがありません。
官位(内大臣)の返納は了承しましたが、一方的な領地の返納要求には回答を避けました。
慶喜が移った二条城は、この時、幕府側の兵であふれかえっています。
この身勝手ともとれる決定に、今にも不満が爆発しそうな様子です。
「天皇に弓は引けない」
これまで朝廷に誠心誠意仕えてきたと自負する慶喜は、骨の髄までしみ込んだ尊皇の教えを破ることはできません。
武力衝突を避けるため、松平容保らをはじめ、兵士らを率いて大阪城に移りました。
薩摩藩の陰謀
幕府を跡形もなく壊さなければ、新しい日本はない!
かたくななまでにそう信じていた西郷隆盛らは、争いを避けようとする徳川慶喜に業を煮やし、江戸焼き討ちという挑発を実行しました。
薩摩藩士や浪士が、江戸の街中に火をつけ、略奪を行い、江戸市中を警護していた庄内藩の屯所を銃撃するという事件を起こします。
これに報復すべく、庄内藩は江戸にあった薩摩藩邸を焼き払いました。
やがてこのことが、大阪城にいる幕府側の面々に聞こえてきました。
当然それが西郷たちの狙いですから、情報を率先して流したのも彼らかもしれません。
人々は、「薩摩討つべし!」と奇声を上げて興奮状態がおさまりません。
慶喜はその勢いを鎮めることができず、とうとう薩摩藩の討伐を決めました。
まんまと西郷の罠にはまった形の徳川慶喜、こうした事情を知ると、気の毒としか思えません。
1868年1月2日。
幕府軍・会津藩・桑名藩などが、京に向かって鳥羽街道と伏見街道を行軍します。
薩摩藩と長州藩は、ぞれぞれの街道で幕府軍を迎え撃ち、鳥羽伏見の戦いが始まったのです。
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