渋沢栄一 明治政府の大蔵省官僚になる 2021年NHK大河ドラマ「青天を衝け」

静岡で、主・徳川慶喜の元で、商法会所の仕事を全うするつもりの渋沢栄一は、妻子を静岡に呼び寄せています。

娘・歌子は7歳。初めての家族水入らずの生活が始まろうとしていた矢先でした。

太政官から、渋沢栄一に出仕の呼び出しがきたのです。

それを辞退したい旨を伝えたところ、徳川側が逆に慌てました。

徳川家が渋沢栄一の出仕を断ると、朝命に反して有能な人材を出さなかったと責められることになるというのです。

徳川家に迷惑が掛かることは避けたい・・・こうして、仕方なくではありますが、渋沢栄一は大蔵省官僚になるのです。



大隈重信と渋沢栄一

渋沢栄一が敬愛する徳川慶喜と敵対し、慶喜を今の境遇に貶めたのは、現政府です。

しかも旧幕臣だった自分が、なぜ明治政府の主要ポストに就任しなければならないのか!?

そんな不満と疑問を持ちながら、渋沢栄一が太政官に出頭したのは、明治2年11月4日でした。

当時の明治政府は、新たな国を作るためと、新たな政府を作るための試行錯誤真っただ中にあり、組織制度もたびたび変わっていました。

しかし薩長土肥の各藩士が上級官僚の多くを占める、閥族政府であることに変わりはありません。

そうした中で渋沢栄一が拝命した役職は、租税正というもので、上官は大隈重信でした。

渋沢栄一は大隈邸を訪れ、重信本人にあって辞退を伝えています。

「自分は税金に関する知識は、まったくありません。静岡での仕事の途中であり、それこそが自分の生涯の仕事と思っています。また、自分は旧幕臣であり、慶喜公には計り知れない恩義を賜っております。ぜひともお側近くでお仕えしたく、今回の任命は取り消していただきたい!」

それに対し、大隈は次のように、渋沢を説得したそうです。

「君がいうことは、もっともだ。しかし、新政府の中で、実際の知識や経験のあるものなど、一人もいない。静岡で藩の財政を潤しているような、斬新な発想が今の日本には不可欠だ。しかも君の辞退が通れば、徳川家に迷惑がかかるのは必定。未来の日本のため、ぜひ尽力してほしい」

ここでも徳川慶喜の立場が悪くなるといった説得をされ、結局受けざるを得なかった渋沢栄一でした。

12月18日、妻子を静岡から呼び、湯島天神中坂下に移り住んでいます。

 

渋沢栄一を推薦したのは誰?

新政府の中には、能力に関係なく旧幕臣というだけで嫌う人達がいたのは事実です。

その筆頭が大久保利通で、彼が大蔵省のトップにいたときは、渋沢栄一に声が掛かることはありませんでした。

いったい誰が渋沢栄一を大蔵省に推薦したのでしょうか。

それは、大蔵官僚・郷純造という人物です。

彼は、「人を見る目」に長けた人物で、郵便の父とも称される前島密なども、郷純造の推薦により政府に登用された一人です。

郷純造は大久保利通には嫌われていて、一度は重要ポストから外されていましたが、大隈重信により返り咲いています。

渋沢栄一が財務に秀で、静岡藩での活躍も政府内には知れ渡っている関係で、歓迎する人々がいる一方で、やはり顔色を変えて反対する人たちも存在しました。

旧幕臣であり、農民あがりの渋沢栄一の下で、仕事などできない!

そう言って詰め寄る人々を、大隈重信は一切取り合わなかったそうです。

一方、渋沢栄一の働きは、神がかり的なものでした。

日本にとって、まったく前例のない中、税の金納制の改革・貨幣制度や郵便制度の検討・鉄道敷設・行政規則の改正など、多岐に渡り、次々と膨大な量の仕事を処理していきました。

結果、農民上がりだの旧幕臣だのと非難ごうごうだった人たちは、大隈重信に謝罪に訪れたそうです。

「渋沢租税正の働きは、誰も真似ができないものです。前に無礼なことを言ったのは、とんだ思い違いでした。得難い人物を得られたとのだと、感心しています。まことに申し訳ありませんでした」

いい気味だ!といいたいところですが、渋沢栄一の苦労は、計り知れなかっただろうと思います。

まだまだ若い渋沢栄一だったからこそだと、まさに時代に求められた寵児だったのだと思わずにいられません。

 

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