幕府を倒そうとしていた渋沢栄一でしたが、幕府を倒すどころか幕府の家臣という立場になってしまいました。
抗うことができない時の流れが栄一をそこに運んでいったのです。
どういう経緯で渋沢栄一が幕臣となったのか、今回はそれを紹介したいと思います♪
幕臣とは?
それぞれの大名は幕府の支配下にあります。
だから侍は全て幕臣では?と思えますが、実は違います。
それぞれの藩の長である殿様は、今でいう社長。
グループ企業の一翼を担う存在であり、徳川将軍は日本というグループ企業のCEOみたいなものです。
Yahoo!もlineもソフトバンク傘下になるわけですが、ソフトバンクの社員とは言わないのと同様です。
幕臣とはそのCEO直属の家来にのみ使われる言葉であり、一橋慶喜の家来になったからといって幕臣ではありません。
一橋慶喜が徳川最後の将軍・徳川慶喜になってしまった結果、その家来の渋沢栄一も幕臣になってしまったのです。
期せずして幕臣となってしまった栄一ですが、その背景を紹介しましょう♪
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天皇の信頼が厚い一橋慶喜
禁門の変は1日で収束したものの、禁裏に押し入ろうとした長州藩に怒りを覚えた孝明天皇は、西郷隆盛らに長州征伐を命じます。
しかし西郷は長州藩を滅ぼすことはしませんでした。
なぜなら日本を変革するためには、長州の力が必要だと考えていたからです。
第一次長州征伐の際は幕府に降伏した長州藩では、保守派が実権を握っていました。
明日の日本を見つめていた高杉晋作たちは、伊藤博文らと決起。
保守派を倒して藩の趣旨を討幕で統一させたのです。
高杉らは亀山社中とその後ろ盾になっていた薩摩藩の力を借りて、西洋式の軍備増強を図ります。
これを知った幕府は長州に対し藩主の隠居・謹慎、十万石の削減などを申し渡しましたが拒否。
幕府の命に逆らい拒否するなどは前代未聞ともいえる珍事。
将軍・徳川家茂は第二次長州征伐を決行、自ら総指揮を執ることとしました。
いざ戦いが幕を開けてみると、西洋式軍備をもつ長州藩に対し、幕府は全く歯が立ちません。
そのうえ、将軍家茂が21歳の若さで戦闘の最中に病没してしまったのです。
負け戦濃厚な幕府軍にとって、将軍家茂の死は士気を落とすには十分過ぎる衝撃でした。
慶喜は朝廷に対し、出陣辞退を申し出るしかなかったのです。
孝明天皇は元々一橋慶喜を高く評価していたこともあり、天皇宣下により第15代徳川慶喜として征夷大将軍の地位につきました。
しかしその直後、孝明天皇が天然痘で急逝します。
最大の後ろ盾を無くした慶喜の落胆と、ここから始まる最大の苦難は大政奉還まで続きます。
崩れ去った新し日本という構想
かつての大河ドラマ「せごどん」の際も放映されていましたが、才知に溢れた一橋慶喜を中心に雄藩が集まり新しい日本を作るという薩摩藩などの構想は、渋沢栄一たちも考えていたようです。
一橋慶喜が将軍となってしまったことで、その可能性が全く無くなってしまったのです。
ひたすらに日本の未来を憂え「国のために」と考えてきた栄一や喜作たちでしたが、方向を見失ったことに暗澹たる思いがあったことでしょう。
それでも今さら一橋家を出ることもできず、栄一は自分が信頼した慶喜のために働くことを決意します。
そしてこの後慶喜の命により、渋沢栄一はフランスに旅立つことになるのです。
これもまた「日本の資本主義の父」と呼ばれるようになった渋沢栄一にとっては、貴重な体験となりました。
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