井上馨の汚点の一つに、渋沢栄一も巻き込まれてしまった感が濃い「尾去沢銅山事件」を紹介します。
2021年NHK大河ドラマ「青天を衝け」で、この内容に触れるかどうかは未知数ですが、井上馨という人を知るには良いかと思い書くことにしました。
尾去沢銅山事件とは
井上馨は、貪官汚吏の権化と揶揄されていたようで、賄賂と利権で私腹を肥やし、散財するという行為を批判されてました。
この尾去沢銅山事件(おさりざわどうざんじけん)も、まさにそうした井上の財界との癒着が引き起こした事件です。
場所は岩手県盛岡市にあった盛岡藩でした。
盛岡藩は尾去沢銅山を所有しており、藩下に商人・村井茂兵衛が、その販売を一手に委託されていました。
明治に入り、財政が乏しくなった盛岡藩は、銅の採掘権までも村井に無理やり売り渡したのです。
代わりに、藩が村井から借りた多額の借金を帳消しにし、銅山からあがる利益の内、年1万8千両を年貢として収めるという、信じられない交換条件を付けての譲渡でした。
このころには、すでに銅山の産出量は減り、銅の価格も下がっていた中での、理不尽といわざるを得ない暴挙でした。
盛岡藩は、その後、戊辰戦争に敗れ、領地が7万石減りました。
当時の藩主・南部利恭は、70万両を明治政府に献納し、盛岡藩知事として復帰したのです。
しかしこんなお金は、盛岡藩にはありませんでした。
やむなくイギリス商人・オールトから30万両を借りたのですが、なんとこの借用名義人も、村井にしてしまったのです。
一商人である村井の財政は、ひっ迫していました。
藩の借金まで返せる余裕があるわけもありませんが、借主が村井だったため、返済が滞てしまったことに業を煮やしたオールトは、大阪弾正台に訴えました。
ちなみに、弾正台とは、司法省の機関の一部です。
しかしこの後すぐ、弾正台は廃止され、村井の心理は大蔵省判理局に移ることになりました。
大蔵省判理局の後ろ盾に井上馨がいたのです。
井上ら大蔵省が狙うのは、銅山の採掘権でした。
捜査にあたった担当官・川村は、盛岡藩に対して村井が書いた「金二万五千両 内借奉る」という証文を見つけます。
実際は藩が村井に対して借金をしたものの証文でした。
体面を慮った武士の時代は、借金をしたにも関わらず、まるで貸したかのように書くのが決まりでした。
そのことは、もちろん担当官の川村も知らないはずはありません。
知っていながら、オールトへの返済金・藩への返済金を全額即刻返済するように迫ったのです。
盛岡藩の借金をすべて背負わされた村井には、返済する能力などありません。
全財産が差し押さえられ、村井は失意のうちに翌年5月に亡くなりました。
大蔵省は、狙い通り尾去沢銅山の採掘権を手に入れました。
そしてその採掘権を、井上馨の知人・岡田平蔵に下げ渡したのです。
これは、井上疑獄事件として、おおいに世間をにぎわしました。
村井の遺族が採掘権の返還を求めて訴訟
村井が亡くなった同じ年の12月、遺族は銅山採掘権の返還を求めて、司法省検事局に訴えを起こしました。
この事件を執拗に追いかけ、調査をさせたのは、肥後藩出身の司法卿・江藤新平です。
彼は井上馨への敵愾心を燃やすとともに、勢力の大きな長州藩出身者に対しての嫌悪感があったようです。
明治8年12月、訴訟から2年経って、ようやく判決が出ました。
村井を取り調べた川村は有罪。
ただ、村井の遺族に返されたのは、盛岡藩の借用書にある二万五千両だけでした。
井上馨と渋沢栄一にも、判決が出ています。
井上馨には、二等減じ懲役2年。ただし、懲役の代わりに、罰金30円。
渋沢栄一には、二等減じ無罪というものでした。
渋沢栄一にかけられた嫌疑は、「村井より取り立てるべき金円を多収した文案に連署した」という罪を問われたものです。
大蔵省がきちんと調べ、これこれこの通りと持ってきた文献に、署名しないという人がいますか!?
ただただ腹立たしいことだと、筆者は思いますが、いかがでしょうか!?
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